スポーツ

※この記事は酒を飲み尽くして買ってきた『伊右衛門』を飲みながら書かれた。静岡県出身の私に言わせれば「お茶」を名乗るペットボトル飲料はお茶(一般名詞)ではなくちょっと渋いアミノ酸飲料でしかない。

スポーツは特にやりこんだ経験はない。しかし見るのは好きだ。上手い解説があれば選手がどのような意図でどのような選択をしたかわかり、それが成功したりしなかったりするのはドラマがある。

僕がスポーツをそのような目で見られるようになったのはゲームの影響だ。スマブラDXのガチ対戦に興味を持っていた時期があり、そこで格闘ゲームにおけるリスクとリターンの考え方を知った。ゲームは現実の単純化であり、行動の選択や反応速度などの要素は残っているが、たとえばキャラクターの耐久力や一つ一つの技のスピードは絶対に変えられない。そのような単純化されたモデルを通じて人間対人間のおもしろみを知った。

ワールドカップの決勝戦が今終わった。サッカーの目的はボールを相手のゴールに入れること。そのためにいろいろな方法で相手の守備を剥がして枚数有利を作るか、あるいは速くて正確なシュートを打つ。チームが整然と機能するのは美しいが、それをエムバペのようなスーパースターが個人の力で打ち破っていくのも爽快感がある。

さきほども少し触れたが、素人がプロの勝負を楽しむためにはうまい解説が必要不可欠だ。どんな分野でも、達人の勝負をエンターテイメントに転化する解説者の存在は重要だと思う

ポケモン

※この記事は『アサヒ スーパードライ』を飲みながら書かれた。

今日は友人とポケモンの映画を見てきた。映画の感想は取り立てて語るほどのものではなく、夏のキッズ映画でポケモンブランドならこんな感じだろうという出来だった。

気心のしれた友人と映画を見るのは楽しい。鑑賞前に世間話をしながら作品への期待を語るのも楽しいし、鑑賞後に飲食店に長居してパンフレットを読みながらああでもないこうでもないと語るのも楽しい。

そういう友達を、僕はいつまで失わずにいられるだろうか。数日前に国家公務員志望の友人も就職を決め、同学年の友人の進路はほぼ決まった。就職して東京を離れる人もいるし、多忙で会えなくなる人もいるだろう。10年もすれば半分くらいは結婚して家族が第一になっているだろうし、残りの半分もいつまで大学時代の友人と関わってくれるかはわからない。

職場で趣味の友人を見つける…?あまりイメージできない。人生で激しく環境が変化する時期は終わりつつあって、目の前には76年間(僕は100歳まで生きる)の平坦な道のりが見えている。

もしかして人生が退屈になるからみんな結婚して子供産むの?

トンネルを抜けると完成であった

※この記事は『アサヒ スーパードライ』を飲んで腹痛に耐えながら書かれた。

ずっと小さい不具合に悩まされ続けてきた実験プログラムだが、今日唐突に完成した。シリアル通信に関する小さい問題を一つ修正した後、次は何をすべきだろうと考えたのだが、何も見つからなかった。なにか見落としがある気もするが、まあこんなもんだろう。

と言ってもプログラムが書けたら終わりではない。自分や身内で何度か実験を行ってパラメータを調整、実験参加者への説明方法などを確定させたうえで、先行研究から予想される効果の大きさを確実にキャッチするために必要な参加者数を計算、リクルート、謝金支払い。そして実験が終わったら分析してまとめてさらなる実験が必要かどうか判断する。

気が遠くなるほど遠い道のりだ。ガチで気が遠くなるというか率直に言って不安になる。研究は怖い。早く大学院を脱出したい。

迷宮入り

※この日記は『プレミアムエビス』を飲みながら書かれた。

実験用プログラムの制作が難航している。仕様をそれほどかっちり決めずに作り始め、途中で増改築を繰り返しているので僕の記憶能力に頼った開発になっていて良くない。

僕は人間の能力というものを信用していない。僕の集中しているときの感覚はメモリに多くの情報が展開され、それらを自在に出し入れしているような感じだ。しかしその脳内メモリは脆弱でいつ消えるかわからない。そういうあやふやなものに頼って作業をするのは不安なので人はメモを取る。計画を立て、記録を残す。そうすれば他人と工程を共有することもできる。個人の思考力に頼ってよい、頼らざるを得ない場面は非常に限られている。

なんで世にプログラミングが必要とされているかというと、書かないと決められないことがあるからだと思うんだよね。完全に100点の仕様書が人間に書けるのであればプログラミングという仕事は必要なくなると思うが、その仕様書はもはやプログラムと同等の難解さになっているはずだ。つまりどこかの段階でめちゃくちゃ細かく仕様を決めなくてはいけなくて、現状それはプログラムを書くという段階に委ねられている。知らんけど。

酒が足りねえ。

kawango2525氏のインターネット観

利他行動は社会心理学の重要なトピックだが(専門ではない)、包括適応度という概念が重要らしい。素朴に自分の遺伝子を残すことだけを考えると利他行動は全く無意味で、利他行動を取るような個体は裏切られ続けて子孫を残さず死ぬので、利他行動は次世代に継承されない。しかし自分自身の遺伝子ではなくても、自分と遺伝子を多く共有するような他個体を援助する行動は、結果的にそのような行動を引き起こす遺伝子が次世代に継承される確率を高める。だから利他行動は存在するのだという。この手の話は『複雑さに挑む社会心理学 改訂版--適応エージェントとしての人間 』に詳しい。

上記のツイートはプラグマティックで科学的な考え方だが、kawango2525氏は以下のように続けている。

こういう思考の飛躍は好きだ。kawango2525氏の政治的なスタンスには賛成できないものもあるが、彼のインターネットの使い方はクールだと思う。科学的でしっかりした話をしたかと思えば、次は哲学的な含みのある話をする。そこには隙がある。後者のツイートには「科学的根拠はあるんですか?」というクソリプがついてもおかしくない。しかし彼は恐れない。

インターネットの発言は文字ベースで曖昧さがなく、しかもログが永久に残る。誰が読むかもわからない。いつ誰からどんな理由で攻撃されるかわからないので、自然とディフェンシブな投稿をしてしまう。あるいは、匿名を選んで攻撃する側にまわる。インターネットってそういう場所でいいんだろうか。

インターネットは人類を試している。

失敗

※この日記は『アサヒ スーパードライ』を飲みながら書かれた。

ちょっとボリューミーな記事を書こうと思ったんだが酔っ払ったら無理になった。下書きに残してあるので気が向いたら完成させる。

研究無理やね。乙。

モーツァルト『ピアノ協奏曲第20番』

※この日記は『アサヒ スーパードライ』を飲みながら書かれた。

モーツァルトは天才作曲家である。彼は貴族の家のBGMを作曲するのが主な仕事だったので、楽しく華やかな曲が多い。そんな中にあって、短調の暗い曲の中にも『交響曲第25番』『交響曲第40番』など優れた作品がある。僕が一番好きなのは『ピアノ協奏曲第20番』だ。

第1楽章は伝統的な協奏曲の形式に則り、まずオーケストラのみで第1主題・第2主題を提示する。その後おもむろにピアノソロが入り、再び第1主題・第2主題を提示する。僕はピアノソロが入ったあとの第1主題の提示部分が大好きだ。4小節遅れて入ってくるピアノの16分音符の緊張感といったらない。

以下の演奏はモーツァルトの大家である内田光子のものだ。入りの部分で非常に気をつけて小さい音でオーケストラにそっと寄り添いつつ、シンコペーションで拍感が弱いオーケストラに対して16分音符という最も細かい音符を一つ一つ明確に鳴らすことで音楽の流れを支配している。僕はこの部分を聞くと、疾走する夜行列車(オーケストラ)の後ろを異形の怪物(内田光子ピアノ)がたくさんの足を蠢かせながら音もなく追ってくる情景を思い浮かべる。

内田光子の演奏ではピアノが入ってから4小節間の起承転結が綿密に計算されている。弱く入って少しずつ存在感を増すが、3小節目の最後でわずかに力を抜いてスピードも落とすことで4小節目の主和音への解決を促す。ただし4小節目でも音量を落とし過ぎないことで次の4小節間に自然に繋がるようになっている。

第3楽章の話もしたかったが、分量が多いのでそのうちする。それにしても内田光子の演奏中の顔は迫力がある。人間はいろんな機能が雑にくっついちゃってるので、指先で複雑な表現をしようと思ったら顔まで動いてしまうのだろう。

郵便制度の欠陥

明朝はゴミ出しなのでゴミを整理しているのだが、郵便受けに放り込まれている宣伝チラシが非常に多く処理が面倒だ。僕にとって有益なチラシがあったことは一度としてないので受け取りを拒否したいのだが、よく考えると不可能だ。

それは、郵便受けを閉じることができないからだ。郵便受けには郵便局員とチラシ配りを区別する機能がない。だから必要な郵便物を受け取りたければ同時にチラシを受け取らねばならない。郵便物を一切受け取らないで暮らすことが可能なら素晴らしいが、現在の日本では大抵の身元確認は住所ベースで行われる。それは租税の単位が土地にあることにも関係しているだろう。つまりまともに社会的な生活を送りたければ住所確認を拒むことができず、そのためには郵便受けを開放せざるを得ない。これは明らかに仕組みがおかしい。郵便局員と住人のみが開けられる郵便受けが開発されるべきだ。

現代は広告の時代だ。とにかく情報を送りつけ続けることで人間の情報処理をハックし(参考)自社の製品を買わせる。コストをリターンが上回る限り企業は広告を縛って捨てる手間など考えてはくれない。

本当に許しがたい。僕の部屋が汚い原因は資本主義にある。

競技プログラミング

内定先の1つ上の世代には競技プログラミングの猛者が多くいるので今日AtCoderでやってたコンテストに参加してみた。

SoundHound Inc. Programming Contest 2018 -Masters Tournament-

というかまだ終わってないんだが、3問目以降はどうあがいても解けそうにないのでもう諦めて終了後に解説を見る。世界の誰かが答えを知っている問題なんだから。阿呆の考え休むに似たり。そうしているうちにそのうちできるようになる。

ところでSoundHoundは僕もよく利用している。飲食店やコンビニで気になる曲が流れていたときに、スマホに聞かせるとタイトルを教えてくれる。自分で曲にアクセスしたり歌詞や作曲者の情報を得るためにはタイトルを知っていることが必要不可欠だ。

作品のタイトルというのは作品そのものではないにもかかわらず、あたかも作品の顔であるかのように振る舞うので面白い。今適当に考えてもタイトルにはいろいろな役割がある。

  1. 検索用インデックス。多くのクラシック音楽には標題はなく、たとえば『交響曲第5番』のように呼ばれている。
  2. ストーリーの付与。特に音楽はそれ自体は言語的な意味を持ちにくいので、『運命』と名づけて「ダダダダーン」に意味を与えてみたり、『フィンランディア』と名づけてナショナリズムに位置づけてみたり。
  3. 要約・説明。例:『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
  4. マーケティングのために衝撃的なタイトルをつけるということもあるだろう。例:『夫のちんぽが入らない』
  5. タイトルと本編が合わさって完成するもの。具体例は思いつかないけど読み終わるとタイトルの意味がわかるみたいなやつ。

『chao情報』は要約・説明かな。

自分史

今日は実験装置の組み立てのためにちょっとしたはんだ付けをした。大昔、10年ほど前にとった杵柄だがそれなりに上手くやることができた。むしろはんだごてが随分傷んでいて熱にムラがあって苦労した。なんでも経験しておけばいつか役に立つものだ。

僕はあまり昔を思い出すのが好きではない。昔好きだったものを思い出すときの「懐かしい」という感情はあまりに強力で、気をつけていないとこれからの人生の大部分を10代の思い出に浸りながら生きることになりそうで怖いのだ。僕は100歳まで生きる予定だが、ちゃんと100年分生きたい。

最近見ている『フラーハウス』は良質なコメディだが、「懐かしさ」の強烈な肯定という点は苦手だ。そもそも『フラーハウス』は『フルハウス』を見ていた人たちが懐かしみながら見ることを想定した作品で、登場キャラクター達もかなり懐かしさに囚われている。昔付き合っていたボーイフレンドと遊び、昔組んでいたバンドを復活させ、昔住んでいた家を完全再現する。まるで時間が止まっているかのような不気味さがある。

しかし大学進学を機に実家を出るという人生の断層がある僕のような人間の方が少数派で、普通の人は過去から現在に続く時間を生きるものなのかもしれない。