計画性

今日は16時頃に休憩のために研究室を出て、安田講堂前の広場でお菓子を食べていた。この季節・この時間帯の組み合わせの奇跡だろうが、太陽の暖かな光とすこし涼しさを感じる風が組み合わさって素晴らしく心地よい時間だった。やかましく鳴いているスズメやせかせかと足を動かして歩くアリを見ているのも楽しい。

太陽が動く速さを感じたことはあるだろうか?授業中に鋭い角度で差し込んでくる光はいっとき眩しいと感じてもいつの間にか別の場所に動いている。僕は影の先端がじりじりと移動していくのを見るのが好きだ。

明日はゼミの発表担当回だ。僕は計画性がなくて、いつも準備が前日ぎりぎりになってしまう。ひとつ言い訳させてもらえば、発表準備というのは関連論文をどこまで読んで確認するかによって、無限に作業量を増やせてしまう。最初のうちは要点を押さえてわかりやすく発表しようと思っているのだが、読み進めて興が乗ってくるとどんどん深掘りを始めてしまう。そもそも発表の経験が少ないし、納得出来るだけの準備もしていないので、前回の反省点を活かして改善するということができない。毎回同じ失敗をしている。

書いているうちに気分が落ち込んできた。いつの間にか勝負の日というものが大の苦手になってしまった。数日前から不安になる。大学院入試のような大きなイベントのみならず、日常のちょっとしたことでも期限があって成果を見せなければならない場面はとても怖い。大学入試はそうでもなかったのは、事前に万全の準備をして、模試で結果の予想ができていたからだろうか。とにかく、こんな変なメンタルの癖がついてしまったのはここ数年のことだ。学部生時代がぬるま湯すぎて耐性を失ったのか。わからない。

こんな豆腐メンタルの僕が来年から働くことはできるんだろうか。大学院と会社の違うところを列挙して会社なら大丈夫だと自分を無理やり納得させることはできるが、実際のところはやってみなければわからない。社会は難しいが、かと言って社会から逃げ出したら僕は生存すらおぼつかない弱い個体だ。だましだましやっていくしかない。

日記スランプに陥って数日、だんだん気づいてきたのだが、書くネタがないというより文章をまとめられないということだ。数週間程度で僕の文章能力がガタ落ちするとは考えにくいので、疲労やスキマ時間の思考の減少と考えるべきだろう。

散漫

今日は妙に集中を欠いた一日だった。つまり散漫だった。

研究発表を聞いても全然理解できなかったし、自分の発表準備も進まなかった。残念だがそういう日もある。研究は頭を使う作業であり、その効率を無理やり上げようとするのは難しい。集中力を用いずとも何かしら手を動かせば研究が進むというのならそれをしてお茶を濁すが、現段階ではそういうタスクはない。

その原因は昼のミーティングが英語だったからかもしれない。僕は日本語に比べて英語が苦手だ。英語を理解するためには集中を必要とするし、英語を話すためには準備時間を必要とする。母語が英語でないというのは不便なことだ。

昨日大きなことを言ったばかりだが、ブログに何を書くべきかわからなくなってきた。6月から書き始めてそろそろ3週間になる。目新しい話題もない。かと言ってこのままブログをフェードアウトしてしまうのは惜しい。というわけで音楽の話をしようと思う。僕という人間が出涸らしになるまではすこしずつ新しいネタを出していく。その先に何かが見つかるかもしれないので。

最近よく聴いているのはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番だ。

この曲で最も有名なのは第3楽章のラスト、ピアノがA→Dの和音を連打する感動的なフィナーレの部分だ。最後の盛り上がりの部分なのでピアニストは最大限の情感を込めてテンポを揺らすが、楽譜を確認してみると面白いことがわかった。

この部分は6/4拍子、つまり2拍子と3拍子の複合なのだ。貼ったブロンフマンの演奏はこの3拍子の感覚をあまり捉えてはいない。A→Dが遅すぎるし、D→Aは速すぎる。ここで作曲者であるラフマニノフ自身の演奏を聴いてみる。

テンポを揺らさずに正確なリズムで和音を打っており、それによって4回のA→Dがひとつの連続体として聴き取れる。

もちろんブロンフマンが巨体を浮かせながら鳴らす爆音はそれ自体がエモーショナルで、一つ一つの和音の充実した響きを存分に聞かせる彼の演奏にも魅力はある。しかし僕は繰り返し打ち鳴らされる和音の間にしっかりと時間の流れ、3拍子ならではの前に進んでいくエネルギーを感じさせるタイプの演奏のほうが好きだ。

規範

今日は日曜日で、もっぱら非生産的活動をしていた。日記に書くことを思いつかないとき、自分という人間の中身のなさ、向上心のなさを感じて辛くなる。

もちろんニコニコ動画やyoutubeでダラダラ見ていた動画を紹介するとか、今日のサザエさんが個人主義と共同体主義の相克を描いた批評性のある回だったとか、好きなゲームの日本代表プロチームが世界大会の予選であっさり負けた話とか、無理やりひねり出せば記事を書けなくもないんだが、どうもそういう自分の消費性向を紹介するのは気恥ずかしさがあるし、ツイッターの方が向いている話題だとも思う。

僕は僕なりにこの日記に「書くべきこと」はなにか考えているし、それが見つからない日は潔く内容のない日記を書いて自分の反省材料にしようと思う。日記に書けること、それだけの意義のあることをしようという気持ちで生きることが自分の人生を多少良くするだろう。

しかし、このマインドは「ツイッターでバズろう」という意図で職場の冷蔵庫の中に入る行動と何が違うのだろうか。結局のところ他人から見た自分を意識し過ぎることで行動の選択基準がはちゃめちゃになるだけではないだろうか。

一方で、人間社会とは(すでに社会という言葉を含んでいることからもわかるように)常に他人から見た自分が基準になるものだという考え方もある。研究だって突き詰めればアカデミックなコミュニティに認められるための行為だし(真理は人類の外にあろうとも、真理に関する情報を蓄積するための科学というシステム自体は人間が作ったものにすぎない)、労働も雇い主や消費者との関わりのなかで価値が決定される。

他の人間のことを気にしない活動として宗教活動も考えたが、これも超越的な存在や規範から自分がどう見えているかという範囲を出ない。純粋に自分だけを見つめてはいないという点では同じだ。ただし超越的な存在は、いわゆる「お天道様が見ている」という言い回しが示すように、いつでもどこでも自分のことを見ている。誰もいない深夜の交差点で赤信号を無視して渡ることも許されない。

素人の僕からすれば外部規範を内在化したものは自律的とは言えないと思うんだが、詳しい人としてはどうなんだろう。多分ギリシャやローマくらいの時代からこういうことを考えている人はいると思うんだけど、アリストテレスが奴隷制に疑問を持ち得なかったように、僕もまたプラグマティズム・人権思想・資本主義などを当然の前提としてものを考えてしまうのだろう。

一度書き始めてみると勝手に文章がスルスル出てきた。これはこれで悪くない。読みにくいだろうけど知ったことではない。

物理防御力

今日は午後から外出して洗濯・散髪・買い物を一挙にこなしてきた。

自宅すぐそばの大通りを渡ろうとしたとき、信号無視の乗用車がかなりのスピードで通り過ぎていった。大抵の信号無視はそうなのかもしれないが、異常事態とは全く感じさせず当たり前のように通過していったので僕が信号を再確認してしまった。

散髪した理由は、長い髪は視界を塞ぐなど機能的に不便であり、手入れに手間がかかるからだ。しかし人体に無駄なパーツなどない。本来は頭部の物理防御のためのパーツだ。不思議に思うのだが、無限に伸び続けるのは機能的にマイナスではないのだろうか。自然の中で暮らしていると適度に抜けたり擦り切れたりして均衡が保たれるのだろうか。

スーパーマーケットでまた焼きそばの材料を買ってきた。今度はちゃんと豚肉だ。豚肉は1パックを3食で使い切るが、最後の1/3を使う頃には消費期限は切れている。鶏胸肉に比べると豚肉は古くなったときの匂いが気にならない。

それにしても今日は寒い。一週間前は夏の到来を感じるほど暖かかったのに、と思って確認したらそれは二週間前だった。

うん。この記事はつまらん。しかし休日の日記とはかくあるべきだ。

お腹いっぱい

今日は不可避な偶発的事象により、家系ラーメン(ご飯2杯)を食べた3時間後に唐揚げ定食(+ビール)を食べることになった。

私の胃袋は貧弱ではないが強靭でもなく、敢えて言えば4年前の全盛期に比べて若干衰えている。家系ラーメンを食べるときはその日はもう食事をしない算段でご飯を大量に食べるので、まさか3時間のインターバルで唐揚げ定食を食べることになるとは当然想定していなかった。

プロの作った唐揚げはもちろん美味かった。それでも油の香りが気になり、その唐揚げが本来持つ美味しさを100%楽しむには至らなかった。これは食材にも料理人にも申し訳ないことだと思う。それでも唐揚げを食べるべき事情が僕にあったのだ。

人生はベストではなくてもベターを求める選択の連続である。

概念的理解と本質の分解

※この記事はサイゼワインの残り物を飲みながら書かれた。

今日は結構長く(当社比)大学にいた。大学院ゼミの担当箇所が非常に重い。発表から5年も経っていない新しいグラフ理論の論文を頑張って読んでいる。

僕は区分上は文系だ。高校では数学はⅡBまでしか学んでいない。心理学で広く求められるのは統計の能力だが、統計は完全に理解しようと思うと大学数学レベルでも足りないし、かと言って数式を全部諦めて概念的理解だけでお茶を濁していると高度な手法に差し掛かったときに限界が来る。結局なんとなくわかるところまでちゃんと学んであとは必要に応じてという雑な感じになる。

勉強にBGMが必要かどうかというのは興味深い問いだ。基本的には無い方がいいと思っている。意識していなくても脳のリソースは使っているので、効率は落ちる。しかし音楽を聴くことがモチベーションや習慣になっているという人にはBGMは有効だろう。そもそも僕は脳が頑張らないとできない作業というものをあまり信頼していない。研究や学習の成果というのは論理的に説明可能であるべきだ。そして論理というのは丁寧に一行ずつ書き進めていく限りは特に頑張らなくても理解できる。つまり頑張って脳をはたらかせないと理解できない状態は、まだ対象を十分に分解できていないのだ。分解できていなくて1つのステップが大量の情報処理を含むから脳のCPUもメモリもたくさん必要になる。

あまり筆が進まない日だ。

演繹的大勝利

※この記事は『ほろよい メロンサワー』を飲みながら書かれた。

というわけで鶏胸肉焼きそばのアレンジを試みた。問題点は焼きそばのソースの味と鶏胸肉が本来持つ酸味の相性が悪いことだった。ここで私は2つの食材に共通して組み合わされる調味料を加えて橋を渡すことを考えた。それはマヨネーズである。

マヨネーズを焼きそばにかけるのはごく一般的だ。マヨネーズを細く格子状にかけているのをよく見る。また、鶏胸肉の調理法としてマヨネーズ焼きはこれも一般的だ。というわけで鶏胸肉を焼く前にマヨネーズを塗った。

はたして、大成功であった。マヨネーズが焼きそばと相性が良いのは既知のことであったが、さらに酸味と塩味が融合したマヨネーズが鶏胸肉の酸味を覆い隠しつつ焼きそばの味になじませている。完全勝利である。

私は実験科学を専攻する身として、演繹的なものの考え方には懐疑的である。頭の中で考えたことがその通りに成功すると信じることは少ない。しかし今回ばかりは私のロジックは完全に正しかったようだ。私の舌がそれを証明した。

えーっと

今日は何があったかな…

そうだ。承認してないので表示されてませんが、結構スパムコメントが来ているので"http"は禁止ワードにしました。URLを投稿したいときはなんか工夫してください。

一昨日買い物をしたときに豚肉が売り切れていたので代わりに鶏胸肉を買った。それで焼きそばを作ってみたが、やはり不味かった。鶏胸肉には若干の酸味があり、焼きそばとの相性が悪い。あるいは焼きそばの味付けの方を鶏胸肉の方にアジャストすれば良いのかもしれない。若干の研究を要する事案だが、鶏胸肉のグラム価格は豚肉の半額以下なので良い調理法が確立できればリターンは大きい。

大学に行き、ゼミの教科書を読んだ。明日は自分の発表順が回ってくるかどうか微妙なところだ。今回の発表スライドはMarpでmarkdownを使って書いている。その理由は数式が多いからだ。Marpは標準でKaTeXに対応している。またmarkdownは純粋なテキストファイルなのでgit管理できるのも良い(githubの草を水増ししている)

僕はスライド作りが苦手だ。アニメーションは全然うまく使えないし、そもそも何をスライドに載せておくべきかよくわからない。人の心がわからないので自分が読んで既に理解したものを他人に説明するとき、他人はどんなスライドがあれば理解しやすいかぜんぜんわからない。俺は雰囲気でスライド作りをやっている。markdownは見出しやリスト化などできることが限られているので、逆に構造化されたスライドが作りやすい(気がする)。

自由からの逃走。

不器用

昼食は食堂でヒレカツ・味噌汁・ご飯を注文した。トレーを運ぶ際に味噌汁を少しこぼしてしまった。さて、席についていざ食べようというときに問題が起きた。

僕は食べる前に皿の位置を正す。具体的には味噌汁は右手前、ご飯は左手前、そしておかずが奥だ。しかし運ぶときは味噌汁が左手前にあった。そしてそこにはすこし味噌汁がこぼれている。これが何を意味するかというと、ルーチンに従ってご飯を左手前に移動すると、本来汚れていない茶碗の底まで味噌汁で汚れる。さらに茶碗を持つときに手も汚れるだろう。

困った。合理的に判断すれば味噌汁による汚れを拡散しないために、今日ばかりは皿の位置を直さずに食べるべきだろう。しかしルーチンを破るのは気持ちが悪い。5秒ほどフリーズした後、僕は皿の位置を移動した。

それにしても、大多数の人間がトレーに載せられた味噌汁をこぼさずに運べるというのは凄いことだ。先日のロボコンで東大が優勝したらしいが(ちなみに僕はクラウドファンディングで東大RoboTechを支援している)、ロボットに難しい動きをさせるのと同じくらい、人間が滑らかに動ける謎を解き明かすのも面白いことだ。

人体の信号伝達速度から考えるとフィードバック処理はラグが大きすぎてとても滑らかな運動は実現できない。つまり運動信号の大部分は自分の体や外界のシミュレーションによって予め計算されているのだ。そしてそのために必要な膨大な計算を担っているのが脳のGPUとも言われる小脳である(参考)。

この辺は深入りすると長いので、終わる。

二日酔い回避

昨夜は相当飲んで帰宅したのだが、大量に水を飲んで寝たら二日酔いにならずに済んだ。化学には詳しくないが肝臓でアルコールを分解する化学反応のために水が必要らしい。「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」ではないが、人間の体はまさに化学プラントである。

午後からゆっくり活動開始して、洗濯→松屋の回鍋肉定食→乾燥→サザエ視聴。行きつけのコインランドリーにはジャンプが置いてあったりなかったりするのだが、今日は偶然新しいジャンプが置いてあって運が良かった。ソーマがそろそろ終わりそうで驚いた。

以前からすこしずつ作っていた視覚実験用のツールがとりあえず完成した。視覚実験では呈示する刺激図形の大きさは現実空間におけるサイズではなく網膜に占めるサイズ(視角)で決める。つまりディスプレイが遠ければ刺激図形は大きくしなければならないし、逆もしかり。このツールではディスプレイサイズ、解像度、そして刺激図形の視角を入力することで、実験プログラムを組むときに刺激のサイズを何ピクセルで指定すればいいか計算してくれる。ロジックは単純で割合とtanの計算をしているだけである。

Hyperappはとても便利だった。ユーザーが入力するフォームと、その計算結果が表示されるフォームの色分けをどうしようか考えている。パッと見ただけでわかるようなデザインにしたい。