お名前.comからchao.tokyoがそろそろ失効するというメールが来た。思えばせっかく苦労してwordpressを導入したのに全然使ってないので何か書こうかと思って書いている。
最近、いやそんなに最近でもないけど、 クソ酷いウェブサイトを読んで感銘を受けた。特に
俺様が俺の考える最強のウェブページを教えてやる(中略)もっともお前が5MBサイズのシャレオツなコーヒー写真ではなくて伝えたいことがあればの話だがな
という部分。頑張ってwordpressを導入して、凝ったテーマと自慢気な自己紹介ページを作ったは良いが、それ以外の内容は貧弱も貧弱。ちなみにこのウェブサイトを作った目的は就活における自己アピールの一環であり、実際にそれは1社に対しては効果的にはたらいた(落ちた)。
ブログは初めてではない。中学生の頃にくっだらないブログを書いていて、高校生になって部活の友人に見つかったので急いで消した。僕も人並みにはネットに書いてはいけないことを身をもって学んできたというわけだ。その割にはこのウェブサイトの自己紹介は無防備だが、これは僕なりの時代への適応(迎合)である。「ネットは匿名、特定されたら怖いことになる」というのは過去の話。そりゃあ悪いことをして目立ったらえらいことになるだろうが、普通の大学院生なんて世界にはいくらでもいるので、普通にしている限りは僕が多少の個人情報を晒したところで何も起きないだろう。通行人Aでしかない。
さて、ブログを書くうえで最大の困難は書くことである。条件づけ(「付け」と書くと警察が来る)の枠組みで考えれば、なにか書きたいと思ったとき、いやそもそも「書きたいと思う」などという行動が条件づけの枠組みで捉えきれるのかは怪しんだけど、とにかくそういうときには実行して報酬を得るのが早い行動が選択される。何が言いたいかというと、ツイッターでええやんって話。書きたいことを思いついたときにそれをサッと投稿できて、しかもワンクリックでふぁぼできて、それが即座に伝わるというスピード感は圧倒的。ツイッターってのはそういう強さがあって、それゆえにいろんな場所からコミュニケーションの機能だけを引っぺがして奪い去った。
自社サービスが「倉庫にされている」
ツイッターという単一の営利企業がコミュニケーションの基盤になっている危うさは昨今の誤凍結騒ぎやオルタナティブであるマストドンの出現によって多少は意識され始めたようだが、そういう話を始めるときりがないのでやめよう。
そういう社会的な側面以外にもツイッターを使いたくない理由はある。ツイッターに浸かっていると発言の様式はツイッターに最適化されたものになる。たとえば「140字以内で、わかりやすく」といった具合に。「わかりやすさ」というのは世の中ではとても重視されているようだが、わかりにくいものをわかりやすく説明することは不可能だ。ツイッターというサービスの形がツイッターにおける僕らの行動を規定する。それだけならいいのだが、ツイッターはいつでもどこでも触れてしまうのでうっかりしてると生き方までツイッター式になりかねない。僕はこうしてブログを書くことによって、141字以上の思考能力を守ろうと思う。
こうして文章を書いていると書きながら次に書きたいことがどんどん湧いてくるのだが、僕の残念な脳みそではそのアイデアを保持することができない。よってタイピングが終わったタイミングで「さっき何を書こうと思ったんだっけ…あああれか。でも今書いた文章とあれはどういうつながりんだっけ…」などと考えることになる。これは結構ストレスフルな体験なので、そろそろ終わる。
追記
とりあえず書くのをやめてプレビュー機能で自分の文章をざっと読み返してみたが、つまらない。こんなものをバカ正直に全部読んでくれる人間はいないだろう。脈絡もないし、そもそも僕の思考の垂れ流しを面白いと感じる人間はよっぽどの物好きだろう。もしちゃんと読んでくれる人がいたら一緒にお酒を飲みましょう。僕はスーパードライが好きです。