『ポケットモンスター スカーレット』を苦しみながらプレイしている

ちょっとやってみたいと思って始めたのだが、このゲームをプレイすることは苦しい。いや、楽しいのだ。まだ序盤も序盤だが、楽しいし感動的だ。しかしながら、このゲームに感動する自分のことは嫌いで、だからこのゲームをプレイすることは嫌いな自分と向き合わされることになり、苦しい。

どこに感動し苦しんでいるのかと言うと、子どもとしての生を再体験させられることだ。このゲームの冒頭の自宅の部屋の描写は、涙が出るほど美しい。入学当日の希望に満ち溢れた心を表現するかのような、眩しく晴れた空。その光が幾分やわらかくなりつつ降り注ぐ窓際の勉強机。太陽の匂いがする布団。過剰なまでに色鮮やかな自宅の周りの花畑の中で、新しいパートナーとなるポケモンと散歩する。子どもの頃にだけ味わえるビビッドな世界に対する感動や全く新しい人生のステージに踏み込む希望が懐かしさとともに押し寄せてきて、ああ、僕は29歳になっても子どもであることに憧れてしまうんだなあという実感が恥ずかしく苦しい。

「大人は大人らしく生きねばならない、子供の遊びに大人が夢中になるのは恥ずかしい」そんな物言いが過去のものになりつつある時代なのかもしれないが、僕はやはりそういう古い考え方に惹かれてしまう。何か信じるものがないと、時間経過が衰えによってのみ自覚されるこの先の人生を想像したときに気が狂ってしまう。「僕は大人としての責任を果たしており、日々成長・前進している」そう信じたいのだ。主人公はいくらでも走り続けることができるが、あれも見ていて辛い気持ちになる。僕は筋力はともかく持久力は落ちてるのであんなに走れないよ(という話を若い友達にしたら「僕は妖怪ウォッチ世代なので走りは制限ありましたね」という話をされて、妖怪ウォッチ世代って何???とひっくり返ってしまった)。

ポケモン経験は3作目だ。最初は20年以上前に『レッド』を。次は10年くらい前に『ホワイト』を。そして今作だ。いろいろと変わっていて驚くが、まずはキャラメイクだ。いや、ポケモンにキャラメイクという概念があるのもすごい。明示的な性別の選択がなくなり、肌の色も髪の色も自由自在。任天堂様の先進的な考え方が現れている。だが待て、年齢は?身長は?ゲームの世界では何にでもなれるように見えて、その実子どもになることは強いられている。ゲームのコンセプト上必然的にそうなるのはわかるのだが(いや、でも学校も年齢制限緩そうだし別におっさんとしてプレイしてもよくない?)、そういうロールプレイを楽しめるような人間ではないので、どこか申し訳ない気持ちがある。あとすごい気合を入れて理想的な容姿のキャラクターを作ったのに、そのキャラクターに自分の名前をつけてしまったのでそれも違和感があって、これまた申し訳ない…と思っている。

実際はポケモンを戦わせることにあまり興味がない。モンスターボールという道具とポケモンバトルというシステムは残酷だと思っているし、真剣にゲームに向き合うほどそれらと関わりたくないという気持ちになる。ゲームの進行の必要上主人公はポケモンバトル無敗の超天才という扱いになるし、それは僕が望むものではないので、ロールプレイとしてもちょっと微妙な気持ちになる。そもそもポケモンバトルの強さってなんなんだろう。ポケモンはシステム上は時間をかければ誰でもレベル100にできるのに。あるいはそれはゲームだからそう見えているのであって、実際の(?)ポケモンには衰えの概念があるから、多数のポケモンを強い状態に保ち続けることはやはりトレーナーの能力なのだろうか。

ポケモンの収集もあまり気乗りしない。道で出会っただけのポケモンを捕獲し、ボックスに入れて放置するという酷薄さに耐えられない。図鑑に登録したらすぐリリースしたい。

ゲームの内容からは少し離れるが、ポケモンのファン層の厚さにも驚いた。とにかく言及が多く、いろいろなキャラクターの細かい言動についても多様な考察が飛び交い、ファンアートが量産されている。ゲームでありながら物語でもあるポケモンというコンテンツの底力はそういうところにも現れているのだろう。すごいなあ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です