二日酔い回避

昨夜は相当飲んで帰宅したのだが、大量に水を飲んで寝たら二日酔いにならずに済んだ。化学には詳しくないが肝臓でアルコールを分解する化学反応のために水が必要らしい。「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」ではないが、人間の体はまさに化学プラントである。

午後からゆっくり活動開始して、洗濯→松屋の回鍋肉定食→乾燥→サザエ視聴。行きつけのコインランドリーにはジャンプが置いてあったりなかったりするのだが、今日は偶然新しいジャンプが置いてあって運が良かった。ソーマがそろそろ終わりそうで驚いた。

以前からすこしずつ作っていた視覚実験用のツールがとりあえず完成した。視覚実験では呈示する刺激図形の大きさは現実空間におけるサイズではなく網膜に占めるサイズ(視角)で決める。つまりディスプレイが遠ければ刺激図形は大きくしなければならないし、逆もしかり。このツールではディスプレイサイズ、解像度、そして刺激図形の視角を入力することで、実験プログラムを組むときに刺激のサイズを何ピクセルで指定すればいいか計算してくれる。ロジックは単純で割合とtanの計算をしているだけである。

Hyperappはとても便利だった。ユーザーが入力するフォームと、その計算結果が表示されるフォームの色分けをどうしようか考えている。パッと見ただけでわかるようなデザインにしたい。

犬ヶ島

友人に誘われ映画『犬ヶ島』を見てきた。映画レビューブログではないので映画の話はあまりしない。

犬は忠誠心が強い生き物として描かれることが多くそれを無批判に踏襲して良いものかと思っていたが、考えてみれば犬というのはそもそも忠誠心が強くなるように交配されてきた歪んだ生物、言ってみれば種そのものが人間のエゴなので、犬の忠誠心を強く描くことよりもそもそも犬を映画に出すこと、さらに言えば犬という生物が存在すること自体が批判されるべきことだった。

ちょっと調べてみたら家畜化以前も群れ社会を形成していたから忠誠心が強いという説明も見かけたが、それはそれで犬の本能的な性質を人間がハックして利用しているということなのでやっぱりエゴですわ。

エゴってなんだ。

愛国

※この日記は Asahi DRY BLACK ビアホール仕立ての黒 を飲みながら書かれた

愛国という言葉がある。「自分の国を愛する行為のこと」(ニコニコ大百科)らしい。さて、僕は愛国者なのだろうか。

「国」とはなんだろうか。中学校では主権・国民・領域と習った。主権とは大雑把に言って選挙権のことだろう。僕は権利がある選挙には全て投票している。それくらい選挙権が好きだ。国民は日本国籍を持つ人間ということだろうか。嫌いな人間も好きな人間もいるが、日本語が通じるので平均すると外国人よりちょっと好きかな。最後に領域だが、寒すぎず暑すぎずちょうどいいと思う。好き。

僕は愛国者だった。完。もうちょっと書く予定だったけどまあいいや。

 

追記

Asahi DRY BLACK ビアホール仕立ての黒は美味い。

ダメな日

今日はダメな日でした。なので大学に行かずに自宅でJavaScriptをしてました。JavaScriptは全然わかんないんだけど、たぶん1年後から死ぬほど使うのでちょくちょく触るようにしている。hyperapp以外何もインポートしていないので、いろいろ作りつつそのうちhyperappの中身さえ読めば完全に理解したことになる(?)。

ここ数日あまり人生をしていない。世界から疎外されている気がする。

人生というのは今日と明日と明後日と…からなる。すなわち人生は無数の今日によって構成されているので、今日を生きることは人生そのものである。にもかかわらず人は今日と人生を別のもののように考えてしまう。

書くことない。

すごい勢いでド梅雨になってる

そもそも梅雨というのは雨が続く季節のことなので、すごい勢いで梅雨になるとはどういうことなのかよくわからない。昨日が晴れで今日が雨ならすごい勢い?いやそれ普通でしょ。

私は大学に自転車で通っているので、雨が降るとなにかと面倒だ。カッパを着て自転車で来るか、電車に乗るかの2択になる。前者のほうが所要時間が短く金もかからないが、雨の程度によっては濡れてしんどい。雨が続くとカッパの乾燥が不十分になり気持ち悪い。

雨は好きだ。雨の日に屋内で暖かくしながら外を眺めているのが好きだ。窓ガラスを挟んで別の世界がそこにある感覚や、雨によって相対的に浮かび上がる屋内という環境の堅牢さ・安心感が好きだ。

多分500万年前も雨は降ってたと思うし、当時の人類も雨を凌ぐ洞窟の中で外を眺めながら同じことを考えていたんだろう。

世界のレンダリング

並木通りを歩くと、僕が、僕の頭部が、僕の眼球が移動するに従って目と木の位置関係が少しずつ変化する。それにしたがって木が異なった角度から少しずつ違った見え方をする。

3DCGを利用したゲームは視点・光源・物体頂点の位置関係を逐一計算して2次元的な見え方を計算しているのだろう。その処理は複雑であり、現実よりはるかに劣るグラフィックを現実より遥かに劣る解像度[1]・現実より遥かに劣るリフレッシュレートで表示するだけでも高価なGPUが必要になり、部屋が暑くなる。

逆に考えて、どうして現実空間はレンダリングが必要ないのか。我々の眼球に入る光はどのような力によって計算されているのか。そうして考えてみると、最終的には光が直進する性質に行き着く。光は光源から一度放たれれば物理法則に従って自力で飛んでくれる。だから我々人間は眼球を用意して飛んでくる光を受けるだけで済む。とすると太陽という巨大な核融合炉が現実世界のGPUということになる。

私は心理学を専攻しながらプログラミングを学び修了後はエンジニアになるが、そもそも現代の心理学は情報科学に強く影響されている。人間をコンピュータと同じ情報処理装置とみなすことによって多くの発見がなされた。その代表的なものが短期記憶(メモリ)と長期記憶(ストレージ)という概念だろう。

それにしても、私はこのブログを心理学啓蒙ブログにしようとは思っていないのだが、なんとなく思い浮かんだことを書いていくと自然と心理学の話になっている。専門分野を持つことの肯定的な意義は世の中のあらゆることを自分の専門分野というものさしによって見られるようになることである。もちろんそれでは測れないものもあるだろうが、測れない・違うということがわかるための基準を持っているのは良いことだと思う。

 

[1]なお眼球から出力される神経の数は10^6(1000×1000)程度しかない。しかしこれは視覚の貧弱さというよりもむしろ網膜で既に高度な圧縮が行われていることを意味する。詳しくは網膜神経節細胞でググれ。

大学院生曜日

月曜日の僕は一週間で一番大学院生をしている。すなわち、研究室のミーティングと学科のミーティングが月曜日にある。どちらも自分の担当回以外では他人の研究発表を聞いて理解し、それをブラッシュアップするような意見・質問が求められる。

これはなかなか難しい。心理学の研究計画は砂時計にたとえられる。すなわち仮説は大きく包括的なものでもいいが、何を計測すればその仮説の正しさを検討できるかというところに工夫を凝らし、最終的には数字と数字の単純な比較に持ち込む。

たとえば「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という大きな仮説を検討したいとする。ここで先行研究を参考に第2段階の仮説として「記憶表象は外部座標系か身体座標系か」を設定する。簡単に言えば現実空間における文字の形がそのまま記憶されていて書くたびにそれをロードしてきて適切な手の動かし方をその場で計算しているのか、それとも手の動かし方をそのまま覚えているのかという2択。そしてこの仮説から「外部座標系で記憶しているならバカでかく書くときも小さく書くときも変わらないはずだが、身体座標系で記憶しているなら字のサイズが変わると関節の動かし方が(非線形に)変化するので、学習が無効になるだろう」という第3の仮説が生まれる。これに基づき「新しい文字を3cmで100回書かせて学習させたあと、1cmと10cmで書かせる。3cmで書いたときの文字を拡大して1cmと10cmの文字との誤差が一定値以下なら文字は外部座標系で学習されたのだろう。そうでなければ身体座標系で学習されたのだろう」という実験が立てられる。この研究例は自分の卒論をベースにいま適当に考えたので警察のツッコミは不要である。

上記実験例では「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という問いが「異なるサイズで書かれた文字の形の差」という数値に収斂した。このように大きな仮説はどのようなもので、それを知るためにどのような実験が考案され、結果のグラフのどこを見ればいいのかということをよく考えながら聞いていないと研究の話にはすぐついていけなくなる。話についていけなくなると退屈で辛いので頑張ってついていこうと試みるが、簡単ではない。

人間を対象に研究をする場合「脳に電極刺して測ってみましょう」というわけにはいかない。人間に何かしらの課題をやってもらって、そのパフォーマンスを測定する。課題とパフォーマンスの関係から、その間にある人間というブラックボックスの性質を少しずつ推理していくのが心理学である。あくまで推理にすぎないので仮説を「検証」するという言葉は使わないのが通例となっている。ある現象が観測されたからといって、その原因が実験者の推測のとおりとは限らないからだ。

まあサルやネコには刺すんですけどね、電極。僕はやったことないけど。

0.75春+0.25夏

※この記事はチューハイ気分(レモン)を飲みながら書かれた

僕の住居は家賃が(場所に比して)安い代わりに人権が少し減っている。隣人の炊飯器のアラームが聞こえるし、地震でもないのに揺れる。そして洗濯機置き場がない。だから僕は洗濯物をバッグに詰めて近所のコインランドリーに通う。コインランドリーに洗濯物を放り込み、近所の飲食店で適当に食事をして、コインランドリーに戻って8分間乾燥、自宅に戻って干すというのが土曜か日曜のルーチンとなっている。飲食店はこれまでは家系ラーメンが多かったが、豆板醤じゃなくて辛醤が置いてあることやラー油が置いてないことが気に入らないので最近は足が遠のきつつある。

飲食店に行って戻る間僕は近所を散歩することになるのだが、週に一度という頻度は絶妙で、季節が少しずつ変化していくのが認識できる。今日の季節はタイトルの通り0.75春+0.25夏だ。基本的には爽やかな風が半袖に気持ちいいのだが少し日差しを長く浴びていると暑いという感覚も生まれてくる。

次の休日にはおそらく暑いと感じる頻度がもっと増えているだろう。「夏だなあ」なんてことを考えているうちに夏も終わり、秋も冬も終わり、僕の人生も終わるだろう。

JavaScriptに慣れるため、Hyperappでちょっとしたカスタム検索を手作りしている。なんにしても自分の手でゼロから作ってみるというのが大事だ。Reactもいいのだろうがちょっと環境が複雑過ぎる。Hyperappも完全に理解しているわけではないが、ブラックボックスがまだ小さくて済む感覚だ。

Reactではテキストボックスへの入力はいちいちonchangeで拾ってstateに反映してやらねばならないと聞くが、これは原理主義的ではあっても効率は劣るのではないだろうか。僕のアプリに必要なのは検索ボタンが押されたときに入力されている内容であって、1文字入力されるごとに何かしたいというわけではない。Hyperappではその辺適当にやれる余地があるようだが、どのように実装するのが美しいのかよくわからない。ブラックボックスを小さめにしたいという学習上の理由からjQueryは使いたくないのだが、すくなくともgetElementById("input1").valueではないと思う。誰か教えて。

wikipediaの検索のためにMediaWiki APIを使いたいんだが、Access-Control-Allow-Originの制約によってAPIを呼び出せない。遊びで書いたPythonからは呼び出せたのに、ブラウザから呼び出すとなると禁止とは、なんともケチな話だ。

じゃあウマ娘見るね。

6月1日の翌日

4時就寝・9時起床で渋谷へ。ぱるめ君の呼びかけで東京に来ていたyui540君に会った。去年8月のドワンゴインターン仲間である。

昨日6月1日は名目上の就活解禁日である。会社によっては内定者の懇親会を行ったりするようだ。これは名案だ。物理身体は同時に2箇所には存在できない。よって就活生にとって自社が一番であることを確認するために物理身体を要求するのは合理的だ。ちなみに僕の内定先の会社は何も言ってこなかった。

帰って寝て起きて寝て起きてこの日記を書いている。午後以降は特に面白い話はない。休日はこうあるべきだ。昨日も一昨日も結構な分量を書いたので、ここで内容のない日記を投稿して自分へのハードルを下げることは細く長く続けるためにはプラスだろう。ないようがないよう。

心理学とは

今日は昼のラーメンの汁が白いシャツにはねた以外は至って平和な一日で、紅茶を飲みながら論文を読んでまとめた。食堂で軽く食べて帰ろうと思ったら(ここでクリアアサヒを買ってきていたことを思い出し、開栓!)知らないニーチャンに「ここの食堂(メトロ)閉まってるみたいなんですけどこの時間でも開いている食堂はありますか」と聞かれた。それなら中央が開いていると答えてそのまま流れで一緒に食べることになった。

ニーチャンの話はまあネットに公開するのはやめておくが、彼との会話の中でひとつ一般的な問題に直面したのでそれを書く。それは「心理学ってフロイトとかですか?僕の気持ちわかりますか?」問題である。24歳にもなって仕事もせずにウロウロしているので、初対面の人と話すときに自分が異常者ではない[要出典]ことを伝えるためには、やはり大学院生であることを伝えるのが手っ取り早い。となれば専攻を言わないことはありえない。かくして以下のようなやりとりが発生する。

「大学院生です」

「ご専門は?」

「心理学です」

「へぇ〜心理学って言うと…」

こんな具合。

事実としては、僕のフロイトに対する認識は「心理学史における過去のある学派の代表者」でありそれ以上でもそれ以下でもない。1879年にブントがライプチヒ大学に心理学実験室を作り、これが実験データに基づく「科学的」心理学の幕開けであった。しかし当時の心理学は内観、すなわち静かな部屋で自分の心に浮かんできたものを報告するという手法に依存していた。この方法では当然自分にはわからない自分の心のはたらきはわからない。ブントの心理学を批判しつつ現れた3つの流派がゲシュタルト心理学、行動主義心理学、そしてフロイトの精神分析学である。フロイトの功績は無意識のはたらきを重視し、意識可能な心のはたらきに限られていた心理学の領域を拡張したことにある。他方、彼の主張の中には実験に基づかないものも多く、それらは現在では歴史的価値以上のものはない。

それにしてもフロイトはどうしてこんなに知名度があるのだろう。ひとつ思うのは、心理学というのは自分の心のはたらきなんだから誰にでもわかるはずだという思い込みと、人間の心には誰にも解明できない神秘性があってほしいという願望の均衡点がフロイトの思想だったのではないかということ。

もうひとつ「僕の気持ちわかりますか」問題だが、これも「気持ちってなんですか」とマジレスする羽目になる。たとえば僕は今全裸で自宅の椅子に座っていて尻が痛い。酒を飲んでいるので口の中は苦くて、頭は少しぼうっとしている。アニメ『ヒナまつり』が始まるのは楽しみだし明日友人と会うのも楽しみだが、約束の時間に起きられるかは不安だ。さて、あなたに今の僕の気持ちがわかりますか?

これはメンタリストDaiGoの影響なのかな。それより前からありそうな質問だけど。もちろん人間の考えていることは動作に漏れ出てくるし、それを利用して誰でもある程度は他人の気持ちを読んでいる。それ以上でもそれ以下でもない。

以上不満めいたことを書き連ねてきたが、基本的に研究をやっている人間は自分の研究している分野について素人に説明できる能力は持っているべきだと思う。社会とか国とかデカいことを言わないまでも、誰かの協力なしに研究はできない。なにより学問は金儲けに役立つので、ちゃんと金を持っている人を納得させると幸せになれる気がする。

おわり。

 

参考文献

梅本堯夫・大山正(1994)『心理学史への招待 現代心理学の背景』(新心理学ライブラリ15)サイエンス社