大繁盛

新しい実験参加者の募集ルートを開拓したらすごい量の予約が入って大変なことになっている。ありがてえ…(藤原竜也ボイス)

演説

僕はしばしば脳内で多くの人々に向かって話す架空の状況を設定して、そこでどのような演説をしようかと空想する。そこで上手い言い回しを思いつくと感動でちょっと泣いたりする。

気持ち悪い。自分の中だけで完結した文章の生成で自分を感動させるような新しいアイデアが生まれてくるはずがない。つまり僕は言い回しそれ自体に酔っているのだ。内容のなさを言葉で糊塗するのはよくないことだ。

だが僕が言葉の使い方にこだわっているのは事実だ。少し前に「形容詞を削る」ツイートがバズったが、これはまさに僕が意識していたことだ。また、ちょっと気を抜くとすぐ文頭に「まあ」をつけてしまうのでこれもなるべく使わないようにしている(羽生善治はめっちゃ使う)。

言葉の使い方は上手いに越したことはないが、度が過ぎると「京都人の嫌味」のようになる。意味のある言葉を正確かつ簡潔に使えるようになりたい。

雑にコミュニケーションを摂取したいときにfriends.nicoを使うことにした。自分用インスタンスは勉強用・情報蓄積用として、LTLでワイワイして遊ぶインスタンスは別に必要だと考えたからだ。

i5PW2PWvaszH@friends.nico←ID変えられないんだよね、Mastodonって。

今日のUI心理学

今日は教科書からではないし具体例もどこで見かけたか忘れてしまったんだが、検索結果が2列で表示されるやつって見づらいよねって話。

そんだけ。

3連休

人はなぜ「3連休で時間あるからあれもこれもやりたいな」と思ったことを月曜日の24時から始めるのか(始めてない)(ブログ書いてる)。

「いつかやりたいな」と思ったことも死を意識するまでやらないのかもしれない。

クラシル not for me

クラシルは料理レシピ動画を掲載するwebサイトだ。youtubeでガーリィレコードチャンネルを見ていたら広告でクラシルのキムチチーズチャーハンの動画が出てきた。ちょうどお腹が空いていたタイミングだったので見てしまった。

とても美味しそうだったので作ってみようかと思ったが、レシピのページを見て断念した。調理時間25分で費用600円と書いてあるが、実際にそのコストで作れる条件は限られている。

たとえば豚ひき肉50gとあるが、50gから買えるわけがない。大抵150gとかだろう。多くの食材がそうで、料理に使う量が購入可能な最小量を下回っているので、料理をし続けて買った分を使い切らないとコストが回収できない。しかし一人暮らしの大学院生の身では大抵買った食材は余らせ傷んでしまう。

調理時間25分も嘘だ。ご飯を炊く時点で1時間はかかるだろう。さらに言えばスキレットなる調理器具も所有していない。自炊にはもっとズルが必要だ。

ガーリィレコードは吉本所属のお笑いコンビ(フェニックス・高井)だ。ガーリィレコードチャンネルはガーリィレコードの2人と雨野宮将明、秋山太郎(パンプアップ)の4人がレギュラーメンバーであり、フェニックスと秋山の住むシェアハウスで下らない遊びをしたりショートコントをしたりしている。さすがにプロの芸人だけあって話は面白いし、歌や踊り、格闘技からオタクあるあるまで持ちネタが多彩だ。

ブレイクのきっかけになったのは高井による藤原竜也のモノマネで2018年1月だが、現時点でチャンネル登録者数は16万人であり、既に一流のユーチューバーだ。

知性の境界

科学政策の文脈で研究者がよりよい環境を求めて海外に出ることを「流出」などと表現する。この言葉遣いには違和感があって、科学者の成果というのは論文にして公開されるのだから研究者がどこの国にいようと関係ないと思うのだ。言い換えれば優秀な科学者の成果は世界中どこからでも利用可能なのだから、「自国の」科学研究能力を高く保つ意味はない。むしろ他国の研究者の成果にタダ乗りしてそれを応用して儲けるのが合理的なのではないか。

無論そんなことはない。2つの反論を思いつく

第1に、日本人が日本で研究しないと誰もやらないテーマの研究が廃れる。日本に関する研究は日本で研究するのが便利だろう。

第2に、こちらの方が大事だと思うんだが、研究者によって育てられる裾野の人材が減る。研究者が一人もいない国を考えてみればいい。現在の大卒に相当する人材は留学経験者しかいなくなる。

輪廻

※この記事は『旅する氷結 HAVANA STYLE』を飲んで書かれた。

小学生のころはモノを捨てるのが悲しかった。長く使ったモノには人格を感じて、それを捨てることは身勝手で残酷なことのように感じた。環境問題がクローズアップされていた時代の影響もあっただろう。

今は違う。不要なものは手元からリリースすることが大事だと思う。たとえ捨てられ壊されてモノとしての役割を終えたとしても、それを構成する物質、極端に言えば分子や原子は回り回ってどこかでまた何かの役割につく。意味もなく手元にとどめてはいけない。

 

ひと目でわかること

※この記事は『極搾り 柑橘ミックス』を飲んで書かれた。

自転車に乗っているときは風景がかなりのスピードで流れていくが、一瞬目に映っただけでも何かわかるものがある。今日はそんな体験が2度続いた。

1度目はネズミの死体だ。自転車を止めてゆっくり眺め回したりはしなかったが、25cmくらいはあっただろうか。道路に無造作に転がるそれなりの大きさの袋状のもので、手足がピンク色に目立っていた。

動物の死体は病原体の巣窟であり、危険だ。危険な情報に素早く反応するのは進化的に古い脳の役割である。視覚であれば後頭葉から嫌悪を司る扁桃体を経由して交感神経が活動する。これによって心拍数の増加、呼吸の増加、発汗などが起こり、体が逃走の準備を整える。

2度目は友人だ。自転車で鼻歌を歌いながら帰宅していたら気がついた。昔はよく会っていたが今はそうでもなく(働いている)、この辺りにはたまにしかこない人なので確率の低い偶然だった。

ヒトの顔についてはFFA(Fusiform face area)という顔認識に特化した領域があることが知られている。ヒトの顔を上下逆にすると認識が難しくなることは倒立効果と呼ばれ、顔は特殊な処理が行われていることを示唆している。サッチャー錯視はその顕著な例だ。

人間の視覚は必ずしも汎用的ではない。危険回避や同種他個体の弁別などの具体的な目的を持って作られた機能も含まれている。ヒトの顔に異常に敏感だからこそ、何でもないところに顔を見たような気になってしまい、心霊現象だと思いこんでしまう。

全然関係ないけど食堂のとろとろ丼定食(ひきわり納豆とオクラのどんぶり)、美味くない。前回は味がなかったので今回は醤油をかけたがただ醤油の味がするだけだった。

生還

※この記事は上野『かっちゃん』で飲んできたあとに書かれた。

今日は研究室のミーティングだった。ろくでもない結果しか出ていないので壮絶な覚悟で望んだが、困っていることを説明したらたくさんのアイデアをもらったディスカッションが弾んだのでよかった。

晴れやかな気分でミーティングを終えられたので友人の招集に応じて上野の立ち飲み屋に行った。『せんべろ』なるジャンルを初めて聞いたのだが、「1000円でべろべろに酔える」ような価格帯の酒場の俗称らしい(wikipedia先生)。そもそも僕は1000円分も飲まずともべろべろに酔えるのでそれほどありがたみは感じないが、今日行った店は1000円ポッキリで生・ウーロン茶・天ぷらセットでとても良かった。昼間は天ぷら定食を売ってる店で本格的な天ぷらだった。

そういえば学科の内定者歓迎会のメールが来ていた。僕の大学は2年生の半ばで3年生以降の学科が決定するので、この時期に学科の内定者の歓迎会が企画される。この会には以前アルコールバトルで敗北して大変なことになった苦い思い出がある。

僕はアルコールが好きだ。強くもなければ詳しくもないが、よく飲む。アルコールを飲むと脳が縮むと言う。気にならないわけではないが、将来の健康を見越して常に最善の行動しかとらないとするとかなり生活が制限されるのであまり考えないようにしている。そもそも人体の耐用年数は30年くらいだろう。その先は高望みしないことだ。

今日のUI心理学

4.3 色の識別能力

目立たせたい色は彩度を上げる。色を比較させたいとき(グラフの凡例など)は眼球運動なしに両方の色が目に入るように近づける。

図1.左眼の網膜位置に対応した桿体・錐体の分布密度(感覚知覚ハンドブック p.924 図18・5・1)

「立命館大学人間科学研究所 人間科学のフロント 色覚障害について考える」より引用

人間の網膜で色を認識できる錐体細胞は視野中心部から両側に10度程度の範囲に密集している。つまりグラフを注視しながら凡例を視野に含めるためには、それらを視角10度以内に配置する必要がある。

視角10度は視距離57cmのときに10cmだ。意外と近い。視角とディスプレイ上の距離(ピクセル)の対応を知るためのツールは以前作った。

(アイコニックメモリーって色はどのくらい正確に保持できるんだろう。教えてエロい人)

夏の終わり

今日も洗濯に出かけたが、いい天気だった。日が照っていて肌が焼ける感覚もあるが、まったく不快ではない。空気がかわいていて、一歩間違うとすぐに寒さを感じる天気に変わってしまうような不安定さ、ギリギリのバランスを感じた。

いよいよ夏が終わろうとしている。このような季節の境界にいると、夏と冬というまったく違う世界を半年ごとに行き来しながら生きていることが信じられなくなる。

それにしても、この土日も結局何もしなかったなあ。月曜はいろいろ取り返さねば。なんだかんだ言って休息が必要だったということだろう。今朝は何やら異様な夢を見て目覚めてもこれが現実かなかなか判別できなかった。これもまた中途半端な季節の仕業かも知れない。

私が生きるこの世界、現実というのはそれほど安定しているものではない。ふと昔読んだ本を思い出した。『クレヨン王国 水色の魔界』だ。『クレヨン王国』シリーズは児童文学の傑作だが、これはその中でも異常な作品だ。はっきり異常と言っていい。人間に捕らえられ食われる魚達の「針が痛い」みたいな生々しい苦しみが表現されている。

昔好きだったコンテンツを振り返るのは基本的にはろくでもないことだが、それを掘り返すことで過去と現在の自分の差分が明らかになったり、自分が今の状態になった源流がわかったりするので面白みもある。久しぶりに読んでみようかしら。かつては母が月に2回図書館に通って大量の本を借りてきてくれたものだが、今はワンクリックでkindle版が買える。いい時代だ。