抜かれた歯の気持ち

「今日はどうせ『抜かれた歯の気持ち』とかで日記書くんだろ」と煽られて腹が立ったので、今日は『抜かれた歯の気持ち』で書くことにした。煽った連中は責任を持って最後まで読め。

と言っても、無生物を擬人化するのは得意ではない。というか好きではない。昔はよくやっていた。長く使ったモノを捨てることはモノの「愛」や「信頼」を裏切る行為のように感じていた。このことは以前書いた

ところで動物に人間がアテレコする邪悪テレビ番組があるが、あれは人間の動物への思いを投影しているに過ぎない。同じように、「抜かれた歯の気持ち」と言っても僕の歯への思いを語ることしかできない。

さて、今はモノを捨てることへのためらいは減ったが、身体の一部を捨てるとなるとやはり抵抗はある。本質的な違いはなんだろう。

  1. 生まれたときから持っている
  2. 自己そのものである
  3. 再生不可能

1はあまり本質的とは思えない。生まれたときに包まれていた毛布を今でも持っている人がどれだけいるだろうか。ただ、無理やり持たされていれば身体と同じくらいの愛着は感じるものかもしれない。

2はなかなかおもしろい。デカルトは心身二元論を唱えたそうだが、僕は現代心理学を学んだ人間なので二元論には反対だ。僕が自己=「心」と思い込んでいる情報処理機構は、僕の身体と密接に結びついている。人間の情報処理は感覚入力から運動出力へのマッピングであって、つまり身体と切り離すことはありえない。高齢者の認知能力の低下(に見える現象)は大部分が知覚能力の低下、つまり感覚器官の物理的損耗によるという話もある。そもそも人間の情報処理は全て神経細胞のネットワークによって実現されており、適切に切ったり薬を投与したりすれば、「心」に属するという思われている病気も治ったりする。

書きながら思い出したが、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』には『中心点行方不明病』という病気が出てくる。カバがライオンに尻尾を食いちぎられたことで心身の不調を訴えるというものだったと記憶している。物理学的にはカバの巨体にとって尻尾の重量など大したことないのだが、ずっとその体で生きてきた本人にとってはそうはいかないということだろう。物理的な損壊が思考の主体である自己すら脅かす。

3も大きなファクターだ。何でもかんでも大量生産されデータ化されている現代では大概のものは捨ててもまた手に入る。だからこそ僕はいろいろなモノをひと思いに捨てることができているが、自分の身体は一度捨てたらもう二度と元通りにはならない。

これは僕にとっては重大な事項なのだが、おそらくヒトにとっては重大ではない。成長や怪我や加齢で身体は絶えず変化し続けているし、それに合わせて常に身体コントロールの調整も行われている。

要は身体に永続性・不変性を求めていることのほうがおかしいのだ。その背景にあるのはいつまでも健康で生きていたいというバカみたいな欲望だ。そういう欲望を持つことと、それが実現しないことは僕が数億年の進化を勝ち抜いてきた生物である以上避けられないことであって、議論するのは無意味だ。存在したいと願った遺伝子が存在している。

医療の発達によって人間はやたらと長生きするようになってしまった。意味ないのに。

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