規範

今日は日曜日で、もっぱら非生産的活動をしていた。日記に書くことを思いつかないとき、自分という人間の中身のなさ、向上心のなさを感じて辛くなる。

もちろんニコニコ動画やyoutubeでダラダラ見ていた動画を紹介するとか、今日のサザエさんが個人主義と共同体主義の相克を描いた批評性のある回だったとか、好きなゲームの日本代表プロチームが世界大会の予選であっさり負けた話とか、無理やりひねり出せば記事を書けなくもないんだが、どうもそういう自分の消費性向を紹介するのは気恥ずかしさがあるし、ツイッターの方が向いている話題だとも思う。

僕は僕なりにこの日記に「書くべきこと」はなにか考えているし、それが見つからない日は潔く内容のない日記を書いて自分の反省材料にしようと思う。日記に書けること、それだけの意義のあることをしようという気持ちで生きることが自分の人生を多少良くするだろう。

しかし、このマインドは「ツイッターでバズろう」という意図で職場の冷蔵庫の中に入る行動と何が違うのだろうか。結局のところ他人から見た自分を意識し過ぎることで行動の選択基準がはちゃめちゃになるだけではないだろうか。

一方で、人間社会とは(すでに社会という言葉を含んでいることからもわかるように)常に他人から見た自分が基準になるものだという考え方もある。研究だって突き詰めればアカデミックなコミュニティに認められるための行為だし(真理は人類の外にあろうとも、真理に関する情報を蓄積するための科学というシステム自体は人間が作ったものにすぎない)、労働も雇い主や消費者との関わりのなかで価値が決定される。

他の人間のことを気にしない活動として宗教活動も考えたが、これも超越的な存在や規範から自分がどう見えているかという範囲を出ない。純粋に自分だけを見つめてはいないという点では同じだ。ただし超越的な存在は、いわゆる「お天道様が見ている」という言い回しが示すように、いつでもどこでも自分のことを見ている。誰もいない深夜の交差点で赤信号を無視して渡ることも許されない。

素人の僕からすれば外部規範を内在化したものは自律的とは言えないと思うんだが、詳しい人としてはどうなんだろう。多分ギリシャやローマくらいの時代からこういうことを考えている人はいると思うんだけど、アリストテレスが奴隷制に疑問を持ち得なかったように、僕もまたプラグマティズム・人権思想・資本主義などを当然の前提としてものを考えてしまうのだろう。

一度書き始めてみると勝手に文章がスルスル出てきた。これはこれで悪くない。読みにくいだろうけど知ったことではない。

“規範” への1件の返信

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