洗濯システムの不具合を発見した/歯科と眼科に行った

僕の家の洗濯システムでは衣類は

  • 着用
  • 洗濯槽
  • 乾燥(浴室orベランダ)
  • ハンガーラック
  • 着用

をループする。このとき、ハンガーラック→着用の段階で両足分揃っていない靴下を弾くバリデーションがある。しかし洗濯槽→乾燥の段階でも洗濯物ハンガーに靴下は揃えて掛けていて、揃っていないときは洗濯槽の中に残す処理をしていた。その結果、洗濯槽とハンガーラックに引き裂かれた靴下は二度と揃うことがなくなっていた。これからは洗濯槽→乾燥でのバリデーションを廃止する。

歯科に行って歯のクリーニングをしてもらってきた。右上親知らずに関してはそのうち抜く必要があるが、それ以外はとても良い状態というお墨付きをもらえたのでよかった。自分の習慣が良いのか悪いのか定期的なフィードバックをもらうため、特に異常がなくてもクリーニングには行くことにしている。健康保険料を結構取られているので、全額とは言わないまでもそれなりに回収できる程度には体のメンテナンスにお金を使っていきたい。

続いて眼科に行った。というのも、ここ数日ドライアイの自覚症状があったからだ。検査の結果涙が乾きやすい状態になっているとのことで、目薬の処方を受けた。目薬を使ってみるといい感じだが、医者には1ヶ月後に来いと言われたのに薬は一週間持つかどうかという量で意図をはかりかねている。特に目にヤバい傷や病気があるというわけではなかったのでそれはよかった。

野生動物を狩って40歳くらいで死ぬ人生なら体は消耗品と割り切っても良かったのだろうが(ホンマか?)、僕は一日中椅子に座ってPCを睨みつけることで価値を生産していて、しかもその生活を60歳くらいまではやるつもりでいる。そういう生き方を選んだ以上、それに付随する身体への負担は自分でケアしなければならない。

目の調子が悪い

目が乾き、瞬きが重い。一日中PC見てるからそりゃあドライアイにもなるわ。

土曜は眼科かな。仕事をおいそれと変えられない以上まっとうな対策があるとも思えないが。

なんとなく体が重い感覚もあって今日は帰宅してからあまり何もしていない。

ゆく人くる人

※この記事はビールを2本飲んで書かれた。

という気分になっているのだなあ。

mesoさんには2017年のインターンのときに初めてお会いした。中間発表会に遅れてきたとき、席は用意してあったのに入り口の近くの床に座っていた。当時人事部長という立場にありながら偉ぶらず人を緊張させない振る舞いとしてとても印象に残った。フランクな人柄と組織の中核としての毅然とした態度の両方を尊敬している。

kmizuさんは新卒Scala研修の講師だった。Scalaのことなら何でも知っている。言語の第一人者から教わることで、細かな仕様にも妥当性や事情があることがわかった。動けばいいやのアマチュアではなく、隅々まで理解し尽くしたプロとしての仕事を求められることを実感した。

お二人とも新天地でのご活躍を祈っています。

くる人は誰かって?それは僕です。

キャベツの千切り

酒を飲んでないからだろうが、あまり日記を書くモチベーションが上がらない。

複雑な事情によって千切りキャベツが1袋分あるのでそれをサンドイッチにして食べるためにパンと具を買ってきたのだが、パンが小さいせいで全然キャベツを詰められなくて半分も食べられなかった。辛い。

『アイ・アム・マザー』を見た

※この記事は『Asahi DRY ZERO』を飲んで書かれた(!)。

ブラウザをVivaldiに切り替えることにした。Chromeの独自機能は使えなくなるのでパスワード管理をBitwardenに移行し、いろいろなサービスのパスワードを登録していった。その作業中にNetflixを開いたら面白そうな映画がサジェストされ、そのまま一気に見てしまった。

アイ・アム・マザー』はつい最近Netflixで公開された映画だ。

人類滅亡後に始まったヒト再生作業。そのすべては、1人の少女から始まった。そして、彼女はアンドロイドを母と呼ぶ。

冒頭、保存されていた胚が育成機に入れられ、女の子が誕生する。その子が機械で完全に制御されたシェルターの中でアンドロイドの「母」に育てられるシークエンスが素晴らしかった[note]冒頭8分くらいまでなので見てから読んでもらったほうがいいかも知れない[/note]。なおキャラクターに名前はないので「母」「娘」と表記する。

「娘」が泣き止まないときは「母」の腕に埋め込まれた音楽プレイヤーで子守唄を流す。どの曲が気に入るかわからないので少し聞かせては別の曲に切り替えていく。一緒に折り紙をすると「母」は素早く複雑な動物を折るが、「娘」は下手だ。しかしこの巧緻も人間とロボットという対比にならない。なぜならシェルターには「娘」と「母」しかいないからだ。一個体ずつしかいないのだから「娘」と「母」の違いにしかならない。

泣き止まない「娘」に人形を与えるときに、「母」が人形を飾り気のないビニールの包装から取り出すシーンも印象的だ。布で作られた人形は「母」やシェルターの内装とは全く違う質感を持っている[note]直後に「娘」が機械の体の「母」に抱かれているカットにつながる落差がすごい[/note]。そんな柔らかで情緒的なイメージを持つ人形というアイテムすらここでは消費される道具であり、機械によって必要となることを見越して備蓄されていたのだ。

僕は普段から人間の価値を疑っている。人間は自然の法則に従ってタンパク質やら何やらが組み合わさっただけの存在であって、その行動も全て自然の法則から演繹的に理解可能だ。ただそれが複雑すぎて「まだ」解明できていないにすぎない。つまり科学のレベルを上限値まで引き上げていいSF作品ならば人間を完全に理解し管理することは可能だ。[note]ちなみに大学院の指導教員に「いずれ人間は完全に理解されるのではないか」と質問したら「そんな世界で人間は生きられるのだろうか」と答えられたことは強く印象に残っている。[/note]

アンドロイドが子育てをするシーンは、そしてもっと広く言えば機械化されたシェルターで人間が生きるという描写はまさにそれだ。機械化とは合理化であってそこでは必要なものと不要なものが峻別されるのだが、その過程で「必要とは何のための『必要』なのか」という疑問に巻き戻される。その疑問に無理やり答えを出そうとすると、人間存在に目的を設定し、手段として扱うことになるだろう。(たとえば家畜には肉や卵を生産するという目的がある。それができなければ殺しちゃうよね)。誰かがこんな話をしていたと思って軽くググったらカントだった。

本作で言えば優しい子守唄も楽しい折り紙遊びも健全な成長という目的に回収される。「娘」の育成にはさらに隠された「目的」があるだがそれは自分の目で確かめてほしい。

僕は職業柄技術ファーストでものを考えがちだが、倫理的な視点も兼ね備えていないと人間にできることの幅を広げても人間を幸せにはできないのかもしれない。

目的のない行動をとれる不合理性こそが人間らしさである、そう結論づけるのは簡単だ。しかしNetflixのAIにレコメンドされるままに映画を見て感想を書いている(書かされている?)僕にそれを言う資格があるのだろうか。

オフライン外出

※この記事は『金麦』を飲んで書かれた。

今日は用事で世田谷区に行った。夜にスマホを充電するのを忘れたので道中で電池がなくなった。目的地までのルートは覚えていたので問題なかった。面白いものを見たときにシェアしたいという気持ちをが強く生じるのだなあと思った。

帰りに焼きそばの材料を買ってきたはずが肉を忘れていたのでもう一度外出する羽目になった。麺・肉・野菜を3食分ずつ買えない問題は以前紹介したとおりで、3食分に相当する野菜を売ってくれという希望を出したら本部に意見を送ると言われた。望みは薄いだろう。

その後はDota2をして過ごしたが全然勝てなかった。一時的なスランプかもしれないし、プレイ頻度が落ちたせいで腕が落ちているのかもしれないし、あるいは最近のパッチによるメタの変動についていけていないのかもしれない。時間の無駄なのでこの際やめてしまおうかなどと考えるけれど、それを言い始めるとすぐに首を吊ることになる。まがい物の刺激で脳を慰める人生は楽しいか?

最近は日記の文体を自分で意識しすぎていた。今日は酔いの程度が良く、力を抜いた文章が書けたような気がする。シラフでは書けない。

先輩のバナナジュース/書くことと読まれること

※この記事はいろんなビールをたくさん飲んで、同期に監視されながら書かれた。

先輩のバナナジュース

社内チャットで先輩がバナナジュースの無料券を誰かに渡したがっていたのでもらって行ってきた。ただの無料券かと思っていたらスタンプが20個押されたポイントカードで重みがあった。初めて行く店では過剰なアレンジをせず店が推しているメニューを頼むことにしているので、プレーンなバナナジュースを頼んだ。バナナと牛乳だけで作っているのだという。

飲んでみるととても濃い。牛乳が入っているというが牛乳の気配はない。バナナを液体に変換することによって口の中でのポジショニングが自由になり、バナナ以上にバナナの甘み・酸味を感じられるバナナジュースになっていた。食感(?)の面では粘度が高く、繊維の舌触りやシャリシャリした感触(謎)もあった。しばらく持って歩くと内側と外側に温度差が生じていたのも面白い。

書くことと読まれること

ブログを継続的に書き始めたのは去年の6月1日だ。だから明日で1周年になる。それを記念して明日は休日にしようと思う。

1周年でなぜ休むのか。それは解放だ。1年間欠かさず書き続けてくると、1日たりとも落とすわけにはいかないという強迫観念が生じる。それによって1年間続けられたというのは事実ではあるが、2年続けたら落とせない意識はもっと強くなる。どこかで休憩を挟んでおかないと今後一生この強迫観念に囚われ続けてしまうだろう。だからこの機会に休む。

今、監視している同期から「1周年続けた感想を書け」と言われたので正直な気持ちを書く。3月までに比べて4月からは読者への意識が強くなった。会社の同期は結構このブログを読んでいて、今も僕の後ろで執筆を監視しながら「読者のことを意識しているちゃおくんなんか見たくなかったよ〜」などと勝手なことを言っている。

原子を電子顕微鏡で観測するのは難しいと聞いたことがある。なんでも電子をぶつけることによって原子が動いてしまうとかなんとか(よく知らない)。観測するという行為はどうしても観測対象に影響を及ぼしてしまう。執筆を監視しながら「見られていることを意識するなよ」と主張するのは無敵の論理だ。考えてはいけないと言われると考えてしまうし、笑ってはいけない場面ほど笑ってしまう。自分が周りに影響されていないことを確認するために周りを見回してしまうというループにハマる。

これは僕の弱さで、自分が自分に正直であることを信じるために他人を参照する必要はない。でも、他人の目を気にしないのはもはや人「間」ではない(我々はそういう生き物ではない)。僕は他人の目を気にするし、影響もされる。自分のそういう心の動きを正直に認めることこそがむしろ「正直」という僕のポリシーに沿った、僕らしい生き方なのだと思う。

五月病の訪れ

はっきりと体感している。いつも通りの労働時間なのだが午後から急に集中力が落ち、腹痛もあった。帰り道もぼーっとしていた。胸が重く気持ちも沈んでいる。

いろいろ理由は思いつくがシンプルに五月病だと思う。4月は緊張感が持続していて疲労を感じにくかったが、そろそろ慣れてきて気持ちで体の消耗をごまかすことができなくなるのだろう。まだ現世で肉体に束縛されているので仕方がない。

今日は早く寝る。この手に限る。

抜かれた歯の気持ち

「今日はどうせ『抜かれた歯の気持ち』とかで日記書くんだろ」と煽られて腹が立ったので、今日は『抜かれた歯の気持ち』で書くことにした。煽った連中は責任を持って最後まで読め。

と言っても、無生物を擬人化するのは得意ではない。というか好きではない。昔はよくやっていた。長く使ったモノを捨てることはモノの「愛」や「信頼」を裏切る行為のように感じていた。このことは以前書いた

ところで動物に人間がアテレコする邪悪テレビ番組があるが、あれは人間の動物への思いを投影しているに過ぎない。同じように、「抜かれた歯の気持ち」と言っても僕の歯への思いを語ることしかできない。

さて、今はモノを捨てることへのためらいは減ったが、身体の一部を捨てるとなるとやはり抵抗はある。本質的な違いはなんだろう。

  1. 生まれたときから持っている
  2. 自己そのものである
  3. 再生不可能

1はあまり本質的とは思えない。生まれたときに包まれていた毛布を今でも持っている人がどれだけいるだろうか。ただ、無理やり持たされていれば身体と同じくらいの愛着は感じるものかもしれない。

2はなかなかおもしろい。デカルトは心身二元論を唱えたそうだが、僕は現代心理学を学んだ人間なので二元論には反対だ。僕が自己=「心」と思い込んでいる情報処理機構は、僕の身体と密接に結びついている。人間の情報処理は感覚入力から運動出力へのマッピングであって、つまり身体と切り離すことはありえない。高齢者の認知能力の低下(に見える現象)は大部分が知覚能力の低下、つまり感覚器官の物理的損耗によるという話もある。そもそも人間の情報処理は全て神経細胞のネットワークによって実現されており、適切に切ったり薬を投与したりすれば、「心」に属するという思われている病気も治ったりする。

書きながら思い出したが、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』には『中心点行方不明病』という病気が出てくる。カバがライオンに尻尾を食いちぎられたことで心身の不調を訴えるというものだったと記憶している。物理学的にはカバの巨体にとって尻尾の重量など大したことないのだが、ずっとその体で生きてきた本人にとってはそうはいかないということだろう。物理的な損壊が思考の主体である自己すら脅かす。

3も大きなファクターだ。何でもかんでも大量生産されデータ化されている現代では大概のものは捨ててもまた手に入る。だからこそ僕はいろいろなモノをひと思いに捨てることができているが、自分の身体は一度捨てたらもう二度と元通りにはならない。

これは僕にとっては重大な事項なのだが、おそらくヒトにとっては重大ではない。成長や怪我や加齢で身体は絶えず変化し続けているし、それに合わせて常に身体コントロールの調整も行われている。

要は身体に永続性・不変性を求めていることのほうがおかしいのだ。その背景にあるのはいつまでも健康で生きていたいというバカみたいな欲望だ。そういう欲望を持つことと、それが実現しないことは僕が数億年の進化を勝ち抜いてきた生物である以上避けられないことであって、議論するのは無意味だ。存在したいと願った遺伝子が存在している。

医療の発達によって人間はやたらと長生きするようになってしまった。意味ないのに。