五月病の訪れ

はっきりと体感している。いつも通りの労働時間なのだが午後から急に集中力が落ち、腹痛もあった。帰り道もぼーっとしていた。胸が重く気持ちも沈んでいる。

いろいろ理由は思いつくがシンプルに五月病だと思う。4月は緊張感が持続していて疲労を感じにくかったが、そろそろ慣れてきて気持ちで体の消耗をごまかすことができなくなるのだろう。まだ現世で肉体に束縛されているので仕方がない。

今日は早く寝る。この手に限る。

抜かれた歯の気持ち

「今日はどうせ『抜かれた歯の気持ち』とかで日記書くんだろ」と煽られて腹が立ったので、今日は『抜かれた歯の気持ち』で書くことにした。煽った連中は責任を持って最後まで読め。

と言っても、無生物を擬人化するのは得意ではない。というか好きではない。昔はよくやっていた。長く使ったモノを捨てることはモノの「愛」や「信頼」を裏切る行為のように感じていた。このことは以前書いた

ところで動物に人間がアテレコする邪悪テレビ番組があるが、あれは人間の動物への思いを投影しているに過ぎない。同じように、「抜かれた歯の気持ち」と言っても僕の歯への思いを語ることしかできない。

さて、今はモノを捨てることへのためらいは減ったが、身体の一部を捨てるとなるとやはり抵抗はある。本質的な違いはなんだろう。

  1. 生まれたときから持っている
  2. 自己そのものである
  3. 再生不可能

1はあまり本質的とは思えない。生まれたときに包まれていた毛布を今でも持っている人がどれだけいるだろうか。ただ、無理やり持たされていれば身体と同じくらいの愛着は感じるものかもしれない。

2はなかなかおもしろい。デカルトは心身二元論を唱えたそうだが、僕は現代心理学を学んだ人間なので二元論には反対だ。僕が自己=「心」と思い込んでいる情報処理機構は、僕の身体と密接に結びついている。人間の情報処理は感覚入力から運動出力へのマッピングであって、つまり身体と切り離すことはありえない。高齢者の認知能力の低下(に見える現象)は大部分が知覚能力の低下、つまり感覚器官の物理的損耗によるという話もある。そもそも人間の情報処理は全て神経細胞のネットワークによって実現されており、適切に切ったり薬を投与したりすれば、「心」に属するという思われている病気も治ったりする。

書きながら思い出したが、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』には『中心点行方不明病』という病気が出てくる。カバがライオンに尻尾を食いちぎられたことで心身の不調を訴えるというものだったと記憶している。物理学的にはカバの巨体にとって尻尾の重量など大したことないのだが、ずっとその体で生きてきた本人にとってはそうはいかないということだろう。物理的な損壊が思考の主体である自己すら脅かす。

3も大きなファクターだ。何でもかんでも大量生産されデータ化されている現代では大概のものは捨ててもまた手に入る。だからこそ僕はいろいろなモノをひと思いに捨てることができているが、自分の身体は一度捨てたらもう二度と元通りにはならない。

これは僕にとっては重大な事項なのだが、おそらくヒトにとっては重大ではない。成長や怪我や加齢で身体は絶えず変化し続けているし、それに合わせて常に身体コントロールの調整も行われている。

要は身体に永続性・不変性を求めていることのほうがおかしいのだ。その背景にあるのはいつまでも健康で生きていたいというバカみたいな欲望だ。そういう欲望を持つことと、それが実現しないことは僕が数億年の進化を勝ち抜いてきた生物である以上避けられないことであって、議論するのは無意味だ。存在したいと願った遺伝子が存在している。

医療の発達によって人間はやたらと長生きするようになってしまった。意味ないのに。

髪も切れなかった

※この記事は『クリアアサヒ』を飲んで書かれた。

前住んでいた土地では1274円で髪を切っていたが、今の住居の周りで床屋を探しても3000円とかする。ついつい錦糸町まで足を伸ばしてようやく1200円の店を見つけたが、サザエさんの時間に間に合わないので切らずに帰宅せざるを得なかった。

思うに僕は相場を間違っていたのだ。散髪の適正な対価は1000円台ではないのだろう。技術に金を払うことを拒否するなら、それは僕自身の職業を否定することになる。

24歳、歯も抜けず、髪も切れない。誰も俺を愛さない。

親知らずを抜けなかった

まず歯茎の表面に麻酔を塗り、効いてきたらさらに麻酔を注射して奥に届かせるのだが、この段階でひどく気分が悪くなり意識を失った。もとより注射は自分の体を損壊するイメージがあって苦手で、10年ほど前にも予防接種のあとに意識を失ったことがある。

どのくらい時間が経ったのかわからないが、意識が戻った後も手足の筋肉が引きつっていて動かせなかった。看護師についてもらいながら深呼吸を続け、おそらく10分くらいで体は動くようになった。その後もかなり長く(おそらく30分間)看護師の目の届くところで寝かされていた。

原因はきちんと説明してくれたのだが、あまり覚えていない。麻酔に伴う血圧の低下だとか精神的な不安によるものだとかそんな説明を受けた気がする。落ち着いたら治療を再開するものと思っていたが、モニタリング設備の整った大きい病院でやったほうが良いとのことで紹介状をもらった。

虫歯が痛むようになると麻酔の効きが悪化する。つまり虫歯が進行する前になるべく早く抜歯する必要がある。しかし会社員なので土日にしか動けない。幸い推奨された隣町の総合病院は土曜診療をやっているが、土曜は予約できず先着順になる。朝8:30に行かねばならない。

自分の身体の問題なので誰かを責めることはできないし、麻酔で気絶するのは自由意志とは関係ない症状なので責任を感じることもない(虫歯が自分の責任と言えばそうだが、それを言うなら磨きにくい位置に親知らずが生えてくるのは俺の責任か?人体の本来の耐用年数を大幅に越えて生きるために毎日歯をメンテナンスしなければいけないのは俺の責任か?)。ただ痛いのは嫌なので治療はしなければならない。物理身体はまことに不便なもので、不具合は今後も増え続けるだろう。そしていつしか身体的苦痛を避けることが人生の目的になってしまう。いや、そうでなかったことがあるか?

泣く

※この記事は名前を忘れた酒を飲んで書かれた。

自分でも整理しきれない理由でひどく泣いた。

ヒトの体は生きにくいな。早く卒業したい。

ただ生きて生殖すること以外に生命の本質などありはしないのに、人間は単なる栄養補給以上に美味い飯を作り、単なる体温維持以上に華美な服を作る。絵を描き、歌を歌い、ニコニコ動画にBB先輩劇場を投稿する。

心理学は人間の情報処理に迫る学問だ。進化はシビアなので大抵の人間の機能には生存か生殖に有利なものだ。しかしなぜか人間はニコニコ動画に排泄音と喘ぎ声をリズミカルに配置した動画を投稿してしまう。この奇妙なミッシングリンクは興味深い。

コンビニの欲望

ここ数日は気分が落ち込んでいるのでほとんど外出していない。空腹が限界になったらコンビニに食料を買いに行く。そのときのコンビニに陳列された食べ物は本当に美味しそうに見えて惨めだ。

空腹によって食欲が増した状態でコンビニの商品を見ると、驚くほどあけすけに人間の欲を刺激している。食べ物の美味しさが、量が、健康への配慮が魅力的にアピールされている。

自分の欲望を刺激されていることを自覚するのは居心地が悪い。

頭が痛い。

感情の麻酔としての酒

※この記事は『キリン 一番搾り』『ほろよい』のなんかゆずのやつを飲んで書かれた。

僕は不安がりだ。あらゆる締め切りにひどく不安になる。そんなときに効くのが酒だ。酒は感情を鈍らせ、不安が緩和される。能力を低下させる酒を飲むという行為自体が、不安の原因を恐れていないと自分に言い聞かせることにもなる。単純に自分を傷めつけるのが楽しいというのもある。

良くない習慣だ。なんでもかんでも不安になる脳の方が良くない。カス。人生終了。もしメンタルが強靭だったら研究でこんなに苦しんでないよ。最初の興味のあったテーマで貫徹していたはずだ。多分。Dの先輩のやってることを聞くと面白そうだし俺がM1の頃に検討していたテーマに近くて「どうしてそれをやっているのが俺じゃないんだ」という気になる。気合が足りなかった。

8時間後に修論発表だ。研究無理無理って思って諦めようとしたのに周囲の人に止められて続けて今に至るので、今更修論不合格になろうとなんとも思わない。僕に言わせれば順当な結果だ。あんな研究。アルコールを切らすな(カメラを止めるなではない)。

家は買うべきか

ルーチン通りに洗濯に行こうと思ったが、前回の洗濯が遅れたために洗濯物の量が少ない。そこで布団のカバーを洗うことにした。かさばるが適当に放り込めば洗える。

洗濯の間に食事をしようと思って歩いていたら、道端で家を売る人たちが今日もいた。道端で家を売るというのはどういうことかというと、道端に立って近所のマンションに興味はないか声を掛けて回るのだ。そんなマッチみたいなノリで道端で家買う人間いるわけねえだろと思って毎日眺めていた。そんな彼らが今日もいたので思わず笑ってしまったのだが、それが悪かったようで歩いてきて声を掛けられた。特に急ぐ用事もなかったので興味本位で話を聞いた。

オープンハウスという不動産会社の若手社員だった。彼の言うところでは、若い会社員でもマンションを買うべきだというのだ。他人の持ち物に家賃を払うくらいなら毎月ローンを払う方がいい、のちのち貸せるという主張らしい。もちろんそれは道理なのだが、人に貸せるように家をメンテナンスし家賃を徴収するのも楽ではない。

「だから家を買う気はない」と書こうと思ったのだが、調べてみると老後は賃貸が借りにくくなるというリスクがあるらしい。率直に言って老後のことなどほとんど考えていなかった。どうしたものか…

もうちょっといろいろ書くことがあったのだが、自分はどうやって死ぬのか考え始めたらド鬱になってきて無理だ…

厳罰化を望む人々/明日は茶番の卒論発表会

※この記事は『STRONG ハードレモン』を飲みながら書かれた。

↑不味い。非常に不味い。そのくせアルコールは強い。最悪だ。

自分が犯罪被害にあったわけでもないのに「厳罰に処せ」「厳罰化しろ」などと主張する人間がネット民には大変多いが、理解できない。自分と関係ない人間が厳罰に処されることで何の利益がある?おそらく社会心理学の視点から説明可能なのだろうが。何でもかんでも厳罰化を主張する人間は自分が罰される側になることは決してないと思っているのだろうか。それは思い上がりだ。国家はいつあなたに牙を剥くかわからないし、その気になればあなたを(そして私を)殺すことくらい簡単にできる。

僕は警察を信用していない。法律を理解しているかも怪しい人間が拳銃を持って歩いているのが怖い。ろくにものを知らないままで人を逮捕するし、取り調べも不透明だ。でも泥棒に入られたら警察呼ぶんでそのときはよろしく。税金から給料もらってるんだからちゃんと働けよな。

そんな警察に個人情報を漏らしている企業があるらしい。よってTカードは解約し、CCCには個人情報の削除を要求する。書類を郵送しないと受け付けてくれないとのことで、手続きのハードルを上げることでその手続きをさせまいとする姿勢はまさしくカスだと思うが(ビジネスとしては正しい)、時間があるうちにやる。悪を許すな。

明日は10時から18時まで学部生の卒論発表会を聞く。大学院生は積極的に質問することが期待されているようだが、正直言って興味はないし憂鬱だ。本気で卒論生を潰して良くてそれで金がもらえるなら少しはやる気も出るが…。現状では卒論生を落とすことで誰にも利益が発生しない。それは卒業生の質保証を誰も信用していないからだ。もし生半可な成果では卒業できないことが保証されている学科があれば企業はその卒業証書を信用して採用するだろうが、そんな企業はほとんどない。大学の卒業証書なんかに価値はなくて、だから企業独自に採用プロセスを設けている。僕だって卒業が確定してないのに内定出てるし。

心理学にもそういうところはある。伝統的な研究法が再現性のない研究を量産しているにもかかわらず、心理学の作法に則ることが重視され、実質的に人類にとって価値のある科学的貢献をしているかどうかは気にされない。心理学のことも研究のこともわからないまま修士だけ取って(予定)就職する(予定)人間の戯言だから忘れてくれ。

卒論なんてものは時間が限られている以上まともな成果は出ない。卒論発表会の質疑応答というのはそれをわかった上でやりすぎないようにプロレスをするもので、下らない。成果が出るとすればそれはラボがガチガチにサポートしたテーマに限るし、そんなものは今更聞いても面白くない。卒論ならではの遊び心のあるテーマの発表が多く聞けたら嬉しい。

僕は研究をする人間ではなかった。せいぜい新書か教科書を読んで面白い知識を身に着けて自己満足に浸るのが関の山だ。研究は大変だ。世界中の研究者が好き勝手な切り口で行った実験を読んで理解するのも大変だし、参加者を集めてくるのも大変だし、ろくな結果が出なくても修論は書かなければならないのも大変だ。金ももらえないし。

今日もまとまりのない日記になった。生き方に締りがないからこういうことになる。酒が不味い。