仕事が始まり始めた

※この記事は『金麦』を飲んで書かれた。

配属されたのでぼちぼち仕事っぽい仕事をしている。ただしまだ軽い仕事を回してもらって手順を覚えている段階なので「仕事を始めた」と言えるほどのことでもない。一日中パソコンを触ってお給料を発生させる気分は最高だ。

帰宅してScalaで書いている温度管理サーバの作業を進めた。ScalaはJavaの上に作ることで構造が汚くなっている部分もあるが、Javaの財産を活用できる恩恵は大きい。

本格稼働ではないがサーバに載せた。載せたはいいがディレクトリトラバーサル(←このまえ習った)食らいそうなAPI設計なので安全が確認できるまでURLは秘密です。ひさびさにnginx_proxyの設定を思い出す必要があった。地味にdocker-composeは使ったことがあってもただのdocker runは全然したことがなかった。とは言っても記法が違うだけでやれることは似たようなものだ。環境変数を指定したり、ポートを開けたり、ボリュームをマウントしたり。

こんなコマンドを書いたわけだが-eを連打するくらいなら当然.envファイルを使うべきだ。というか自分でDockerfileを書いてイメージを作るべきかもしれない。

梅雨だ。通勤ルートに徒歩の部分が多いので憂鬱だ。傘を差していても靴は濡れるのでいっそのこと長靴で通勤して会社で履き替えようか。なんて考えているうちに梅雨が明けてしまいそうだ。水筒だって買ったはいいが配属されたら近くに給茶機があるので必要なくなってしまった。トイレに行って帰りにお茶を汲んでくると、自分が単なる濾紙になったような気分になる。人間は情報を取り入れて適切に運動するだけの機械なので似たようなものだが。ステートフルかどうかは議論の余地がある。

『UNIXという考え方』を読んだ

※この記事は職場のバーベキューで酒と肉を腹いっぱい詰め込んで書かれた。

↑先輩社員からドワンゴエンジニア焼きそばの焼き方を伝授された。

うたもくプロに『UNIXという考え方』を貸された(事実としては僕が借りているのだが、僕ではなく彼の意思によってそれがなされたとき、どういう日本語で表現するのが適切なのだろう)ので読んだ。

素晴らしい本だと思う。細かい内容については自分で読んでほしいが、2001年出版にもかかわらず、2015年頃からの知識しかない僕にも納得できる内容ばかりで興味深い。名著は錆びない。

たとえば第3章で語られている「試作と試行錯誤を早く回すことで変化の激しい世界に対応する」という発想はアジャイル開発の思想だ。第6章の「すべてのプログラムはフィルタである」という主張は関数型プログラミングのことだし、第7章のマルチコアCPUが出てくるから並列化しろという主張はここ2年ほどのIntel・AMD両社の多コア化の流れを予言していたかのようだ。

実際のところ、この本が未来を予言していたのではなく、ずっとそういう流れ(アジャイル開発・関数型プログラミング・多コア化)は存在していたのだろう。僕が知らなかっただけだ。それでも、現在存在する技術が18年前はどう見られていたのかというストーリーは面白いし、その技術の価値を見極める助けになる。

オフライン外出

※この記事は『金麦』を飲んで書かれた。

今日は用事で世田谷区に行った。夜にスマホを充電するのを忘れたので道中で電池がなくなった。目的地までのルートは覚えていたので問題なかった。面白いものを見たときにシェアしたいという気持ちをが強く生じるのだなあと思った。

帰りに焼きそばの材料を買ってきたはずが肉を忘れていたのでもう一度外出する羽目になった。麺・肉・野菜を3食分ずつ買えない問題は以前紹介したとおりで、3食分に相当する野菜を売ってくれという希望を出したら本部に意見を送ると言われた。望みは薄いだろう。

その後はDota2をして過ごしたが全然勝てなかった。一時的なスランプかもしれないし、プレイ頻度が落ちたせいで腕が落ちているのかもしれないし、あるいは最近のパッチによるメタの変動についていけていないのかもしれない。時間の無駄なのでこの際やめてしまおうかなどと考えるけれど、それを言い始めるとすぐに首を吊ることになる。まがい物の刺激で脳を慰める人生は楽しいか?

最近は日記の文体を自分で意識しすぎていた。今日は酔いの程度が良く、力を抜いた文章が書けたような気がする。シラフでは書けない。

『海獣の子供』のパンフレットが買えなかった

ストーリーなーんも理解できなかった…。まあスタジオ4℃の平常運転と言えばそれはそう。東銀座から上野TOHOはアクセスが良いし、家にも帰りやすい。

しかし上映終了後(23時ごろ)にパンフレットを買えないのが最悪だった。これまでの体験だと上映終了が遅くて売店が閉まっていてもパンフレットだけは売ってくれていた。買おうと思ったパンフレットが(在庫があるのに)買えなかったという体験は初めてだ。はっきり言ってふざけている。

『海獣の子供』は宣伝に力を入れていた。そして公開初日の金曜日の夜なので、仕事終わりのオタク会社員がワラワラ見に来る。つまり昨日の上映終了後というのはパンフレットを売りまくるべきタイミングだ。そこで売店を閉めてパンフレットを売らないというのは愚かだ。

もっと単純に感情の話をすれば、コンテンツにお金を払うチャンスを潰されたことに腹が立っている。僕はよほど酷い映画でなければパンフレットを買う。同行者と感想を語るときに内容を振り返るために役立つし、スタッフのインタビューなども読みたい。見た映画の記録にもなる。僕のようなリテラシーも金もあるオタクを軽んじる態度は許せない。俺をすこれ。

しばらくはReactが仕事になりそうな機運なのでお勉強しなければ。

お酒飲みすぎて溶けてる

※この記事は『プライムリッチ』『ほろよい ぶどう』を飲んで書かれた。

↑見ればわかると思うが、飲みすぎ。でもぎりぎり気持ち悪くならずにつまらないことを言い続けるだけで済んだのでセーフ。

今、どうしても全身で床を感じたくて床に寝転がって目を閉じてみた。すると視界だけでなく脳内の視覚像も白く塗りつぶされて、3秒くらい思考を止めてみるともう前に何を考えていたのか思い出せなかった。

酒を飲んでいるときは余計なことを考えずにすむので苦痛から解放される。未来のこととか。

豚肉が安かった

※この記事は『プライムリッチ』を飲んで書かれた。

今日は行きつけのスーパーで豚肉が100g78円だった。普段の128円に比べてとても安い。しかし一人暮らしでは大量購入しても腐らせるだけなので結局いつも通りの量を買って帰った。一人は非効率的だが自由というかけがえのないメリットがある。

焼きそばは麺・肉・カット野菜の3点セットで作る。麺が3食分セットで売っているのでカット野菜も3食分ずつ買いたいのだが、近所のスーパーには2食分(150g)か4食分(300g)しかない。他のスーパーでよく売っている210gで売ってほしいと要望を出した。

このスーパーはレジの流れが遅いのもつらい。各列10人ずつくらいならんでいることがザラだ。大きいスーパーなので一度に大量に買う人が多くてそうなってしまうのだろう。僕は少しでも会計の時間を短縮するために「ポイントカードは…」と聞かれると食い気味に「ないです」と答えるのだが、ちょっと感じが悪そうで気がとがめる。「ないです」が日本語的にあまりしっくりこないのも気持ちが悪い。

母校へ/逆接が多い

※この記事は『スーパードライ』を飲んで書かれた。

母校へ

サークルの後輩が物理空間で珍しく集合するというので顔を出し、皆でラーメン屋に行った。迂闊に大盛りにできない年齢になってしまった。その後研究室に顔を出し近況報告をした。後輩が研究の流れでどんどん新しい技術に手を出していた。

帰って寝てると就活中の友人から酒に誘われたので亀戸ぎょうざ両国店(←いつ入力してもウケる)で飲んできた。いつか食べたいと思っていたチャーハンを注文したところ、パラパラではないが美味かった。良い話かと思って行ったんだが、良いような悪いような話だった。

帰宅して24時に『海獣の子供』のチケットを取った。初日(金曜)の夜のチケット争奪戦は激しかろうと思っていたが、それほどでもなかった。いい席は一瞬で取られていたが。

逆接が多い

僕の日記には「○○だが、□□だった」という文体が多い。これは当然のことで、日記に書くバリューがあるのは意外性のある情報なので、逆接の文章が多くなる。

文体へのこだわりはいろいろあって、たとえば作品名は必ず『』を使う。こだわりが強いと生活に不便はあるが、僕の職業には向いている性格だと思う。

文体の話で言えば昨日面白いツイートを見た。

事実を並び立てる、やたら長くて丁寧な小学生の日記

ヤメロォ!

エレベーターという空間

※この記事は『プライムリッチ』を飲みながら書かれた。

就職してからよくエレベーターに乗る。エレベーターというのは不思議な空間で、見ず知らずの人々が一緒に狭い箱に入ったうえに誰かが開閉ボタンを押すという役割を引き受けねばならない。

開ボタンはベビーカーや高齢者のように乗り降りに時間がかかる人のために必要だ。しかし閉ボタンは要らない。僕は押したくない。エレベーターの中から外に人がいないことを確認するのは難しいし、そもそも力の強い電動ドアの開閉に人間が関わるべきではない。数秒の時間を節約するためにそんなリスクを負いたくない。

だから本当は行き先のボタンだけ押してあとはボーッとしていたいのだが、操作盤の前でボーッとしていると誰かが後ろから手を伸ばしてきて閉ボタンを押す。「なぜお前は閉ボタンを押すという役割を果たさないんだ」と責められているような気持ちになる。普段は他人の目を気にしない僕だが狭い箱の中に複数人で閉じ込められると「社会的」に行動せざるを得ない。悲しいことだ。

今日もあまり上手く文章が出てこなかった。スランプを感じる。

2年目の抱負に付随する2つの疑問/ESL One Birmingham 2019/感覚の喪失

さて、昨日は1周年記念で休日として、今日が2年目の最初の投稿だ。こういうときには抱負を書くべきだろうと思ったが、トイレでそう考えていると僕の中の人が2つの疑問を投げてきた。

なぜ2年目の最初に抱負を書くのか

今日ツイッターで見た資料にはこんな記述がある。

平成30年の自殺者数は20,840人となり、対前年比481人(約2.3%)減。平成22年以降、9年連続の減少となり、昭和56年以来、37 年ぶりに2万1,000人を下回った。

この文章における「2万1,000人を下回った」という記述は意味のある情報を含んでいない。2万1000人と2万999人の差に意味はないからだ。税金だって(僕の理解が正しければ)年収がある額を超えたときに不連続的に課税額が上がることはない。

要は2万1000という数字がきれいだという意味しかない。そんなのは下らない話だが、人間は愚かなので連続的な数字の中に意味のある区切りを見出そうとする。

だが、日記の1周年は少し意味がある。日付は周期的な性質があり、365日が経過すると地球と太陽の位置関係が元に戻るのだ。つまり季節が元に戻るということであり、これに基づいて農業がスケジュールされ、なんやかんやあって社会のいろいろも365日単位でデザインされている。というわけでまあ、合理性を重んじる僕が1周年で抱負を書いても許されるのではないかと思う。

抱負が存在するのか?

これはちょっと難しい問題だ。そもそもこの日記の目的は何だったか。1年前に日記を始めた日の記事を読んでみると「せっかくWordPressあるから…」くらいのことしか書いてない。

いろいろ考えたんだけど下らないことしか思いつかなかったのでこの話終わりです。抱負はなし。

ESL One Birmingham 2019

Dota2のMajor(年に5回しかない大規模大会)の決勝が今まさに行われていて、執筆どころではない。SecretのYapzOrというプレイヤーがすごい。彼の得意ヒーローはRubickであり、その特徴は敵の最後に使ったスキルを盗めることだ。チームがリソース(レベルやアイテム)で負けている状況でもYapzOrが強力なスキルを盗むことでチームファイトに勝っていく。

それを可能としているのはポジショニングだ。Rubickは打たれ弱いので前線には立てないが、スキルを盗める距離にはいなくてはならない。味方4人と敵5人の位置を常に把握しながら最適な位置でチャンスを待つのは難しい。

感覚の喪失

1日休むだけで全然書けなくなっててビビる。書くことと書かないことの選別ができなくてまとまりのない記事になってしまった。ことよろ〜

先輩のバナナジュース/書くことと読まれること

※この記事はいろんなビールをたくさん飲んで、同期に監視されながら書かれた。

先輩のバナナジュース

社内チャットで先輩がバナナジュースの無料券を誰かに渡したがっていたのでもらって行ってきた。ただの無料券かと思っていたらスタンプが20個押されたポイントカードで重みがあった。初めて行く店では過剰なアレンジをせず店が推しているメニューを頼むことにしているので、プレーンなバナナジュースを頼んだ。バナナと牛乳だけで作っているのだという。

飲んでみるととても濃い。牛乳が入っているというが牛乳の気配はない。バナナを液体に変換することによって口の中でのポジショニングが自由になり、バナナ以上にバナナの甘み・酸味を感じられるバナナジュースになっていた。食感(?)の面では粘度が高く、繊維の舌触りやシャリシャリした感触(謎)もあった。しばらく持って歩くと内側と外側に温度差が生じていたのも面白い。

書くことと読まれること

ブログを継続的に書き始めたのは去年の6月1日だ。だから明日で1周年になる。それを記念して明日は休日にしようと思う。

1周年でなぜ休むのか。それは解放だ。1年間欠かさず書き続けてくると、1日たりとも落とすわけにはいかないという強迫観念が生じる。それによって1年間続けられたというのは事実ではあるが、2年続けたら落とせない意識はもっと強くなる。どこかで休憩を挟んでおかないと今後一生この強迫観念に囚われ続けてしまうだろう。だからこの機会に休む。

今、監視している同期から「1周年続けた感想を書け」と言われたので正直な気持ちを書く。3月までに比べて4月からは読者への意識が強くなった。会社の同期は結構このブログを読んでいて、今も僕の後ろで執筆を監視しながら「読者のことを意識しているちゃおくんなんか見たくなかったよ〜」などと勝手なことを言っている。

原子を電子顕微鏡で観測するのは難しいと聞いたことがある。なんでも電子をぶつけることによって原子が動いてしまうとかなんとか(よく知らない)。観測するという行為はどうしても観測対象に影響を及ぼしてしまう。執筆を監視しながら「見られていることを意識するなよ」と主張するのは無敵の論理だ。考えてはいけないと言われると考えてしまうし、笑ってはいけない場面ほど笑ってしまう。自分が周りに影響されていないことを確認するために周りを見回してしまうというループにハマる。

これは僕の弱さで、自分が自分に正直であることを信じるために他人を参照する必要はない。でも、他人の目を気にしないのはもはや人「間」ではない(我々はそういう生き物ではない)。僕は他人の目を気にするし、影響もされる。自分のそういう心の動きを正直に認めることこそがむしろ「正直」という僕のポリシーに沿った、僕らしい生き方なのだと思う。