イタい中学生ではないが、僕はよく死について考える。自分の死だ。
今日僕が自殺したら、知人はどんな反応をするだろうかと考えるのは楽しい。多くの人が僕の死因を推測しようとするだろう。その思考をトレースするのだ。ある人は研究が辛かったのだと考えるかもしれないし、またある人はもともと僕にはそういう傾向があったと考えるかもしれない。そんなことを推測するのは意味がないと気づく人もいるかもしれない。死ぬことによって自分が主役の葬式というパーティが開かれることに幼稚な興奮を覚える。
死んだ理由を考えるのは無益だ。なぜなら人は必ず死ぬからだ。76年後に来るはずの死が(僕は100歳まで生きる)今日来たという事実にどれほどの意味があるだろう?僕が世界(世界とは?)を変えるような天才だったら意味があるかもしれないが、僕は違う。これは言い換えると今日から76年間生きることに意味などないということだ。
僕はなんで生きているのか。「なんで」という言葉にはいろいろな含みがあるが、理由を問われれば「まだ死んでないから」ということになるし、原因を問われれば両親が産みたかったからだ。死ぬまでにやってみたいこととか、特にない。既に経験していることならそれを思い出せばいいし、まだ経験していないものの魅力は知らないからだ。しかし「だったら今死んでみせろ」と言われるとそれは結構困る話で、死ぬこと自体はよくわからないが死ぬ直前はたぶん痛いし怖い。誰だって痛くて怖いのは嫌だ。逆に全く予期しないうちに認識も感覚もないまま死ぬならそれはそれでいいかなと思う。
そんなわけで熱中症になったり飢えたりしないためだけに今日も生きてます。