トンネルを抜けると完成であった

※この記事は『アサヒ スーパードライ』を飲んで腹痛に耐えながら書かれた。

ずっと小さい不具合に悩まされ続けてきた実験プログラムだが、今日唐突に完成した。シリアル通信に関する小さい問題を一つ修正した後、次は何をすべきだろうと考えたのだが、何も見つからなかった。なにか見落としがある気もするが、まあこんなもんだろう。

と言ってもプログラムが書けたら終わりではない。自分や身内で何度か実験を行ってパラメータを調整、実験参加者への説明方法などを確定させたうえで、先行研究から予想される効果の大きさを確実にキャッチするために必要な参加者数を計算、リクルート、謝金支払い。そして実験が終わったら分析してまとめてさらなる実験が必要かどうか判断する。

気が遠くなるほど遠い道のりだ。ガチで気が遠くなるというか率直に言って不安になる。研究は怖い。早く大学院を脱出したい。

kawango2525氏のインターネット観

利他行動は社会心理学の重要なトピックだが(専門ではない)、包括適応度という概念が重要らしい。素朴に自分の遺伝子を残すことだけを考えると利他行動は全く無意味で、利他行動を取るような個体は裏切られ続けて子孫を残さず死ぬので、利他行動は次世代に継承されない。しかし自分自身の遺伝子ではなくても、自分と遺伝子を多く共有するような他個体を援助する行動は、結果的にそのような行動を引き起こす遺伝子が次世代に継承される確率を高める。だから利他行動は存在するのだという。この手の話は『複雑さに挑む社会心理学 改訂版–適応エージェントとしての人間 』に詳しい。

上記のツイートはプラグマティックで科学的な考え方だが、kawango2525氏は以下のように続けている。

こういう思考の飛躍は好きだ。kawango2525氏の政治的なスタンスには賛成できないものもあるが、彼のインターネットの使い方はクールだと思う。科学的でしっかりした話をしたかと思えば、次は哲学的な含みのある話をする。そこには隙がある。後者のツイートには「科学的根拠はあるんですか?」というクソリプがついてもおかしくない。しかし彼は恐れない。

インターネットの発言は文字ベースで曖昧さがなく、しかもログが永久に残る。誰が読むかもわからない。いつ誰からどんな理由で攻撃されるかわからないので、自然とディフェンシブな投稿をしてしまう。あるいは、匿名を選んで攻撃する側にまわる。インターネットってそういう場所でいいんだろうか。

インターネットは人類を試している。

実験プログラム

いい加減研究しないとまずい(してないわけではない)ので最近は実験プログラムをゴリゴリ書いている。pygameをベースに、特殊な刺激を呈示するときはpsychopyを使ったり、マイクを拾うためにpyaudioを使ったりしている。コンピュータは便利だ。たくさんの実験参加者に全く同じ刺激を呈示することも、参加者の行動をミリ秒単位で記録することもコンピュータなしでは不可能だっただろう。

よく考えると、人間に何かを見せてそれに応じて何かを入力させるのはゲームと同じだ。だからゲームプログラミングのライブラリを使うのは理にかなっている。Pythonは遅いので一般論としてゲームプログラミングには向かないが、僕の研究では3DCGのレンダリングをするわけではないし、タイミングを記録することを考えても100fps出れば十分なのでPythonで事足りる。

マイクやらスピーカーやら圧力センサやらのデバイスを使うとなると低レイヤーで問題が発生することが多い。windows上でその手の問題を地道に解決していくのは正直かなりしんどい。

うん。しんどい。

元気になった

※この記事は『金麦 RICH MALT』を飲みながら書かれた。

昨夜は発表が不安だったが、寝て起きたらどうでもよくなっていて、どうせならと二度寝してから大学に行った。なお前の担当者の発表が長引いたので僕の発表箇所は1/3ほど終わったところで次回持ち越しとなった。

睡眠は偉大だ。僕の人生のプライオリティは

  1. 1日1度の食事
  2. 睡眠
  3. 2度目以降の食事

となっている。1日1度の食事さえとれればあとは無限に寝ていたい。さらに睡眠には眠気がとれるという副産物まである。また、睡眠は認知症のリスクを減らす数少ないエビデンスのある予防法でもある。

夕方からは駒場キャンパスに行った。研究室メンバーが駒場にあるMRIを使った実験をするにあたって、頭部を固定する新しい器具の使い勝手を確認する実験台になった。自分が実験台になるのは好きだ。実験参加者になっているときの僕はいっさいの知的行動をしなくてよい。実験者の指示に正確に従い、下手な勘ぐりをせず素朴に行動することが求められる。実験中に何か事故が起きたとしても、その責任は100%実験者の側にある。従属の快感というのは自分でものを考えなくてもいいという安心感や気楽さに起因するのかなとふと思った。

電車での帰り道は将棋の名人戦を見ていた。「見ていた」と言っても4G回線でニコ生を見ていたわけではなく、ツイッターや5chで情報収集していただけだ。お互い残り時間が減ってきて、しかも形勢はほぼ互角というアツい状況で5chの実況スレをリロードしたとき、事件は起きた。

コイツだ。半年ほど前から認知され始めた迷惑系広告である。戻るを連打しても元のページに戻れない。1分1秒を争う緊迫した勝負の情報を集めているときに邪魔されるのは本当に迷惑だ。神奈川県警は早くこれの配信元を逮捕してくれ。あくしろよ。

名人戦は佐藤名人の防衛に終わった。

不器用

昼食は食堂でヒレカツ・味噌汁・ご飯を注文した。トレーを運ぶ際に味噌汁を少しこぼしてしまった。さて、席についていざ食べようというときに問題が起きた。

僕は食べる前に皿の位置を正す。具体的には味噌汁は右手前、ご飯は左手前、そしておかずが奥だ。しかし運ぶときは味噌汁が左手前にあった。そしてそこにはすこし味噌汁がこぼれている。これが何を意味するかというと、ルーチンに従ってご飯を左手前に移動すると、本来汚れていない茶碗の底まで味噌汁で汚れる。さらに茶碗を持つときに手も汚れるだろう。

困った。合理的に判断すれば味噌汁による汚れを拡散しないために、今日ばかりは皿の位置を直さずに食べるべきだろう。しかしルーチンを破るのは気持ちが悪い。5秒ほどフリーズした後、僕は皿の位置を移動した。

それにしても、大多数の人間がトレーに載せられた味噌汁をこぼさずに運べるというのは凄いことだ。先日のロボコンで東大が優勝したらしいが(ちなみに僕はクラウドファンディングで東大RoboTechを支援している)、ロボットに難しい動きをさせるのと同じくらい、人間が滑らかに動ける謎を解き明かすのも面白いことだ。

人体の信号伝達速度から考えるとフィードバック処理はラグが大きすぎてとても滑らかな運動は実現できない。つまり運動信号の大部分は自分の体や外界のシミュレーションによって予め計算されているのだ。そしてそのために必要な膨大な計算を担っているのが脳のGPUとも言われる小脳である(参考)。

この辺は深入りすると長いので、終わる。

二日酔い回避

昨夜は相当飲んで帰宅したのだが、大量に水を飲んで寝たら二日酔いにならずに済んだ。化学には詳しくないが肝臓でアルコールを分解する化学反応のために水が必要らしい。「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」ではないが、人間の体はまさに化学プラントである。

午後からゆっくり活動開始して、洗濯→松屋の回鍋肉定食→乾燥→サザエ視聴。行きつけのコインランドリーにはジャンプが置いてあったりなかったりするのだが、今日は偶然新しいジャンプが置いてあって運が良かった。ソーマがそろそろ終わりそうで驚いた。

以前からすこしずつ作っていた視覚実験用のツールがとりあえず完成した。視覚実験では呈示する刺激図形の大きさは現実空間におけるサイズではなく網膜に占めるサイズ(視角)で決める。つまりディスプレイが遠ければ刺激図形は大きくしなければならないし、逆もしかり。このツールではディスプレイサイズ、解像度、そして刺激図形の視角を入力することで、実験プログラムを組むときに刺激のサイズを何ピクセルで指定すればいいか計算してくれる。ロジックは単純で割合とtanの計算をしているだけである。

Hyperappはとても便利だった。ユーザーが入力するフォームと、その計算結果が表示されるフォームの色分けをどうしようか考えている。パッと見ただけでわかるようなデザインにしたい。

世界のレンダリング

並木通りを歩くと、僕が、僕の頭部が、僕の眼球が移動するに従って目と木の位置関係が少しずつ変化する。それにしたがって木が異なった角度から少しずつ違った見え方をする。

3DCGを利用したゲームは視点・光源・物体頂点の位置関係を逐一計算して2次元的な見え方を計算しているのだろう。その処理は複雑であり、現実よりはるかに劣るグラフィックを現実より遥かに劣る解像度[1]・現実より遥かに劣るリフレッシュレートで表示するだけでも高価なGPUが必要になり、部屋が暑くなる。

逆に考えて、どうして現実空間はレンダリングが必要ないのか。我々の眼球に入る光はどのような力によって計算されているのか。そうして考えてみると、最終的には光が直進する性質に行き着く。光は光源から一度放たれれば物理法則に従って自力で飛んでくれる。だから我々人間は眼球を用意して飛んでくる光を受けるだけで済む。とすると太陽という巨大な核融合炉が現実世界のGPUということになる。

私は心理学を専攻しながらプログラミングを学び修了後はエンジニアになるが、そもそも現代の心理学は情報科学に強く影響されている。人間をコンピュータと同じ情報処理装置とみなすことによって多くの発見がなされた。その代表的なものが短期記憶(メモリ)と長期記憶(ストレージ)という概念だろう。

それにしても、私はこのブログを心理学啓蒙ブログにしようとは思っていないのだが、なんとなく思い浮かんだことを書いていくと自然と心理学の話になっている。専門分野を持つことの肯定的な意義は世の中のあらゆることを自分の専門分野というものさしによって見られるようになることである。もちろんそれでは測れないものもあるだろうが、測れない・違うということがわかるための基準を持っているのは良いことだと思う。

 

[1]なお眼球から出力される神経の数は10^6(1000×1000)程度しかない。しかしこれは視覚の貧弱さというよりもむしろ網膜で既に高度な圧縮が行われていることを意味する。詳しくは網膜神経節細胞でググれ。

大学院生曜日

月曜日の僕は一週間で一番大学院生をしている。すなわち、研究室のミーティングと学科のミーティングが月曜日にある。どちらも自分の担当回以外では他人の研究発表を聞いて理解し、それをブラッシュアップするような意見・質問が求められる。

これはなかなか難しい。心理学の研究計画は砂時計にたとえられる。すなわち仮説は大きく包括的なものでもいいが、何を計測すればその仮説の正しさを検討できるかというところに工夫を凝らし、最終的には数字と数字の単純な比較に持ち込む。

たとえば「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という大きな仮説を検討したいとする。ここで先行研究を参考に第2段階の仮説として「記憶表象は外部座標系か身体座標系か」を設定する。簡単に言えば現実空間における文字の形がそのまま記憶されていて書くたびにそれをロードしてきて適切な手の動かし方をその場で計算しているのか、それとも手の動かし方をそのまま覚えているのかという2択。そしてこの仮説から「外部座標系で記憶しているならバカでかく書くときも小さく書くときも変わらないはずだが、身体座標系で記憶しているなら字のサイズが変わると関節の動かし方が(非線形に)変化するので、学習が無効になるだろう」という第3の仮説が生まれる。これに基づき「新しい文字を3cmで100回書かせて学習させたあと、1cmと10cmで書かせる。3cmで書いたときの文字を拡大して1cmと10cmの文字との誤差が一定値以下なら文字は外部座標系で学習されたのだろう。そうでなければ身体座標系で学習されたのだろう」という実験が立てられる。この研究例は自分の卒論をベースにいま適当に考えたので警察のツッコミは不要である。

上記実験例では「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という問いが「異なるサイズで書かれた文字の形の差」という数値に収斂した。このように大きな仮説はどのようなもので、それを知るためにどのような実験が考案され、結果のグラフのどこを見ればいいのかということをよく考えながら聞いていないと研究の話にはすぐついていけなくなる。話についていけなくなると退屈で辛いので頑張ってついていこうと試みるが、簡単ではない。

人間を対象に研究をする場合「脳に電極刺して測ってみましょう」というわけにはいかない。人間に何かしらの課題をやってもらって、そのパフォーマンスを測定する。課題とパフォーマンスの関係から、その間にある人間というブラックボックスの性質を少しずつ推理していくのが心理学である。あくまで推理にすぎないので仮説を「検証」するという言葉は使わないのが通例となっている。ある現象が観測されたからといって、その原因が実験者の推測のとおりとは限らないからだ。

まあサルやネコには刺すんですけどね、電極。僕はやったことないけど。

心理学とは

今日は昼のラーメンの汁が白いシャツにはねた以外は至って平和な一日で、紅茶を飲みながら論文を読んでまとめた。食堂で軽く食べて帰ろうと思ったら(ここでクリアアサヒを買ってきていたことを思い出し、開栓!)知らないニーチャンに「ここの食堂(メトロ)閉まってるみたいなんですけどこの時間でも開いている食堂はありますか」と聞かれた。それなら中央が開いていると答えてそのまま流れで一緒に食べることになった。

ニーチャンの話はまあネットに公開するのはやめておくが、彼との会話の中でひとつ一般的な問題に直面したのでそれを書く。それは「心理学ってフロイトとかですか?僕の気持ちわかりますか?」問題である。24歳にもなって仕事もせずにウロウロしているので、初対面の人と話すときに自分が異常者ではない[要出典]ことを伝えるためには、やはり大学院生であることを伝えるのが手っ取り早い。となれば専攻を言わないことはありえない。かくして以下のようなやりとりが発生する。

「大学院生です」

「ご専門は?」

「心理学です」

「へぇ〜心理学って言うと…」

こんな具合。

事実としては、僕のフロイトに対する認識は「心理学史における過去のある学派の代表者」でありそれ以上でもそれ以下でもない。1879年にブントがライプチヒ大学に心理学実験室を作り、これが実験データに基づく「科学的」心理学の幕開けであった。しかし当時の心理学は内観、すなわち静かな部屋で自分の心に浮かんできたものを報告するという手法に依存していた。この方法では当然自分にはわからない自分の心のはたらきはわからない。ブントの心理学を批判しつつ現れた3つの流派がゲシュタルト心理学、行動主義心理学、そしてフロイトの精神分析学である。フロイトの功績は無意識のはたらきを重視し、意識可能な心のはたらきに限られていた心理学の領域を拡張したことにある。他方、彼の主張の中には実験に基づかないものも多く、それらは現在では歴史的価値以上のものはない。

それにしてもフロイトはどうしてこんなに知名度があるのだろう。ひとつ思うのは、心理学というのは自分の心のはたらきなんだから誰にでもわかるはずだという思い込みと、人間の心には誰にも解明できない神秘性があってほしいという願望の均衡点がフロイトの思想だったのではないかということ。

もうひとつ「僕の気持ちわかりますか」問題だが、これも「気持ちってなんですか」とマジレスする羽目になる。たとえば僕は今全裸で自宅の椅子に座っていて尻が痛い。酒を飲んでいるので口の中は苦くて、頭は少しぼうっとしている。アニメ『ヒナまつり』が始まるのは楽しみだし明日友人と会うのも楽しみだが、約束の時間に起きられるかは不安だ。さて、あなたに今の僕の気持ちがわかりますか?

これはメンタリストDaiGoの影響なのかな。それより前からありそうな質問だけど。もちろん人間の考えていることは動作に漏れ出てくるし、それを利用して誰でもある程度は他人の気持ちを読んでいる。それ以上でもそれ以下でもない。

以上不満めいたことを書き連ねてきたが、基本的に研究をやっている人間は自分の研究している分野について素人に説明できる能力は持っているべきだと思う。社会とか国とかデカいことを言わないまでも、誰かの協力なしに研究はできない。なにより学問は金儲けに役立つので、ちゃんと金を持っている人を納得させると幸せになれる気がする。

おわり。

 

参考文献

梅本堯夫・大山正(1994)『心理学史への招待 現代心理学の背景』(新心理学ライブラリ15)サイエンス社