演繹的大勝利

※この記事は『ほろよい メロンサワー』を飲みながら書かれた。

というわけで鶏胸肉焼きそばのアレンジを試みた。問題点は焼きそばのソースの味と鶏胸肉が本来持つ酸味の相性が悪いことだった。ここで私は2つの食材に共通して組み合わされる調味料を加えて橋を渡すことを考えた。それはマヨネーズである。

マヨネーズを焼きそばにかけるのはごく一般的だ。マヨネーズを細く格子状にかけているのをよく見る。また、鶏胸肉の調理法としてマヨネーズ焼きはこれも一般的だ。というわけで鶏胸肉を焼く前にマヨネーズを塗った。

はたして、大成功であった。マヨネーズが焼きそばと相性が良いのは既知のことであったが、さらに酸味と塩味が融合したマヨネーズが鶏胸肉の酸味を覆い隠しつつ焼きそばの味になじませている。完全勝利である。

私は実験科学を専攻する身として、演繹的なものの考え方には懐疑的である。頭の中で考えたことがその通りに成功すると信じることは少ない。しかし今回ばかりは私のロジックは完全に正しかったようだ。私の舌がそれを証明した。

えーっと

今日は何があったかな…

そうだ。承認してないので表示されてませんが、結構スパムコメントが来ているので"http"は禁止ワードにしました。URLを投稿したいときはなんか工夫してください。

一昨日買い物をしたときに豚肉が売り切れていたので代わりに鶏胸肉を買った。それで焼きそばを作ってみたが、やはり不味かった。鶏胸肉には若干の酸味があり、焼きそばとの相性が悪い。あるいは焼きそばの味付けの方を鶏胸肉の方にアジャストすれば良いのかもしれない。若干の研究を要する事案だが、鶏胸肉のグラム価格は豚肉の半額以下なので良い調理法が確立できればリターンは大きい。

大学に行き、ゼミの教科書を読んだ。明日は自分の発表順が回ってくるかどうか微妙なところだ。今回の発表スライドはMarpでmarkdownを使って書いている。その理由は数式が多いからだ。Marpは標準でKaTeXに対応している。またmarkdownは純粋なテキストファイルなのでgit管理できるのも良い(githubの草を水増ししている)

僕はスライド作りが苦手だ。アニメーションは全然うまく使えないし、そもそも何をスライドに載せておくべきかよくわからない。人の心がわからないので自分が読んで既に理解したものを他人に説明するとき、他人はどんなスライドがあれば理解しやすいかぜんぜんわからない。俺は雰囲気でスライド作りをやっている。markdownは見出しやリスト化などできることが限られているので、逆に構造化されたスライドが作りやすい(気がする)。

自由からの逃走。

不器用

昼食は食堂でヒレカツ・味噌汁・ご飯を注文した。トレーを運ぶ際に味噌汁を少しこぼしてしまった。さて、席についていざ食べようというときに問題が起きた。

僕は食べる前に皿の位置を正す。具体的には味噌汁は右手前、ご飯は左手前、そしておかずが奥だ。しかし運ぶときは味噌汁が左手前にあった。そしてそこにはすこし味噌汁がこぼれている。これが何を意味するかというと、ルーチンに従ってご飯を左手前に移動すると、本来汚れていない茶碗の底まで味噌汁で汚れる。さらに茶碗を持つときに手も汚れるだろう。

困った。合理的に判断すれば味噌汁による汚れを拡散しないために、今日ばかりは皿の位置を直さずに食べるべきだろう。しかしルーチンを破るのは気持ちが悪い。5秒ほどフリーズした後、僕は皿の位置を移動した。

それにしても、大多数の人間がトレーに載せられた味噌汁をこぼさずに運べるというのは凄いことだ。先日のロボコンで東大が優勝したらしいが(ちなみに僕はクラウドファンディングで東大RoboTechを支援している)、ロボットに難しい動きをさせるのと同じくらい、人間が滑らかに動ける謎を解き明かすのも面白いことだ。

人体の信号伝達速度から考えるとフィードバック処理はラグが大きすぎてとても滑らかな運動は実現できない。つまり運動信号の大部分は自分の体や外界のシミュレーションによって予め計算されているのだ。そしてそのために必要な膨大な計算を担っているのが脳のGPUとも言われる小脳である(参考)。

この辺は深入りすると長いので、終わる。

二日酔い回避

昨夜は相当飲んで帰宅したのだが、大量に水を飲んで寝たら二日酔いにならずに済んだ。化学には詳しくないが肝臓でアルコールを分解する化学反応のために水が必要らしい。「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」ではないが、人間の体はまさに化学プラントである。

午後からゆっくり活動開始して、洗濯→松屋の回鍋肉定食→乾燥→サザエ視聴。行きつけのコインランドリーにはジャンプが置いてあったりなかったりするのだが、今日は偶然新しいジャンプが置いてあって運が良かった。ソーマがそろそろ終わりそうで驚いた。

以前からすこしずつ作っていた視覚実験用のツールがとりあえず完成した。視覚実験では呈示する刺激図形の大きさは現実空間におけるサイズではなく網膜に占めるサイズ(視角)で決める。つまりディスプレイが遠ければ刺激図形は大きくしなければならないし、逆もしかり。このツールではディスプレイサイズ、解像度、そして刺激図形の視角を入力することで、実験プログラムを組むときに刺激のサイズを何ピクセルで指定すればいいか計算してくれる。ロジックは単純で割合とtanの計算をしているだけである。

Hyperappはとても便利だった。ユーザーが入力するフォームと、その計算結果が表示されるフォームの色分けをどうしようか考えている。パッと見ただけでわかるようなデザインにしたい。

犬ヶ島

友人に誘われ映画『犬ヶ島』を見てきた。映画レビューブログではないので映画の話はあまりしない。

犬は忠誠心が強い生き物として描かれることが多くそれを無批判に踏襲して良いものかと思っていたが、考えてみれば犬というのはそもそも忠誠心が強くなるように交配されてきた歪んだ生物、言ってみれば種そのものが人間のエゴなので、犬の忠誠心を強く描くことよりもそもそも犬を映画に出すこと、さらに言えば犬という生物が存在すること自体が批判されるべきことだった。

ちょっと調べてみたら家畜化以前も群れ社会を形成していたから忠誠心が強いという説明も見かけたが、それはそれで犬の本能的な性質を人間がハックして利用しているということなのでやっぱりエゴですわ。

エゴってなんだ。

愛国

※この日記は Asahi DRY BLACK ビアホール仕立ての黒 を飲みながら書かれた

愛国という言葉がある。「自分の国を愛する行為のこと」(ニコニコ大百科)らしい。さて、僕は愛国者なのだろうか。

「国」とはなんだろうか。中学校では主権・国民・領域と習った。主権とは大雑把に言って選挙権のことだろう。僕は権利がある選挙には全て投票している。それくらい選挙権が好きだ。国民は日本国籍を持つ人間ということだろうか。嫌いな人間も好きな人間もいるが、日本語が通じるので平均すると外国人よりちょっと好きかな。最後に領域だが、寒すぎず暑すぎずちょうどいいと思う。好き。

僕は愛国者だった。完。もうちょっと書く予定だったけどまあいいや。

 

追記

Asahi DRY BLACK ビアホール仕立ての黒は美味い。

ダメな日

今日はダメな日でした。なので大学に行かずに自宅でJavaScriptをしてました。JavaScriptは全然わかんないんだけど、たぶん1年後から死ぬほど使うのでちょくちょく触るようにしている。hyperapp以外何もインポートしていないので、いろいろ作りつつそのうちhyperappの中身さえ読めば完全に理解したことになる(?)。

ここ数日あまり人生をしていない。世界から疎外されている気がする。

人生というのは今日と明日と明後日と…からなる。すなわち人生は無数の今日によって構成されているので、今日を生きることは人生そのものである。にもかかわらず人は今日と人生を別のもののように考えてしまう。

書くことない。

すごい勢いでド梅雨になってる

そもそも梅雨というのは雨が続く季節のことなので、すごい勢いで梅雨になるとはどういうことなのかよくわからない。昨日が晴れで今日が雨ならすごい勢い?いやそれ普通でしょ。

私は大学に自転車で通っているので、雨が降るとなにかと面倒だ。カッパを着て自転車で来るか、電車に乗るかの2択になる。前者のほうが所要時間が短く金もかからないが、雨の程度によっては濡れてしんどい。雨が続くとカッパの乾燥が不十分になり気持ち悪い。

雨は好きだ。雨の日に屋内で暖かくしながら外を眺めているのが好きだ。窓ガラスを挟んで別の世界がそこにある感覚や、雨によって相対的に浮かび上がる屋内という環境の堅牢さ・安心感が好きだ。

多分500万年前も雨は降ってたと思うし、当時の人類も雨を凌ぐ洞窟の中で外を眺めながら同じことを考えていたんだろう。

世界のレンダリング

並木通りを歩くと、僕が、僕の頭部が、僕の眼球が移動するに従って目と木の位置関係が少しずつ変化する。それにしたがって木が異なった角度から少しずつ違った見え方をする。

3DCGを利用したゲームは視点・光源・物体頂点の位置関係を逐一計算して2次元的な見え方を計算しているのだろう。その処理は複雑であり、現実よりはるかに劣るグラフィックを現実より遥かに劣る解像度[1]・現実より遥かに劣るリフレッシュレートで表示するだけでも高価なGPUが必要になり、部屋が暑くなる。

逆に考えて、どうして現実空間はレンダリングが必要ないのか。我々の眼球に入る光はどのような力によって計算されているのか。そうして考えてみると、最終的には光が直進する性質に行き着く。光は光源から一度放たれれば物理法則に従って自力で飛んでくれる。だから我々人間は眼球を用意して飛んでくる光を受けるだけで済む。とすると太陽という巨大な核融合炉が現実世界のGPUということになる。

私は心理学を専攻しながらプログラミングを学び修了後はエンジニアになるが、そもそも現代の心理学は情報科学に強く影響されている。人間をコンピュータと同じ情報処理装置とみなすことによって多くの発見がなされた。その代表的なものが短期記憶(メモリ)と長期記憶(ストレージ)という概念だろう。

それにしても、私はこのブログを心理学啓蒙ブログにしようとは思っていないのだが、なんとなく思い浮かんだことを書いていくと自然と心理学の話になっている。専門分野を持つことの肯定的な意義は世の中のあらゆることを自分の専門分野というものさしによって見られるようになることである。もちろんそれでは測れないものもあるだろうが、測れない・違うということがわかるための基準を持っているのは良いことだと思う。

 

[1]なお眼球から出力される神経の数は10^6(1000×1000)程度しかない。しかしこれは視覚の貧弱さというよりもむしろ網膜で既に高度な圧縮が行われていることを意味する。詳しくは網膜神経節細胞でググれ。

大学院生曜日

月曜日の僕は一週間で一番大学院生をしている。すなわち、研究室のミーティングと学科のミーティングが月曜日にある。どちらも自分の担当回以外では他人の研究発表を聞いて理解し、それをブラッシュアップするような意見・質問が求められる。

これはなかなか難しい。心理学の研究計画は砂時計にたとえられる。すなわち仮説は大きく包括的なものでもいいが、何を計測すればその仮説の正しさを検討できるかというところに工夫を凝らし、最終的には数字と数字の単純な比較に持ち込む。

たとえば「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という大きな仮説を検討したいとする。ここで先行研究を参考に第2段階の仮説として「記憶表象は外部座標系か身体座標系か」を設定する。簡単に言えば現実空間における文字の形がそのまま記憶されていて書くたびにそれをロードしてきて適切な手の動かし方をその場で計算しているのか、それとも手の動かし方をそのまま覚えているのかという2択。そしてこの仮説から「外部座標系で記憶しているならバカでかく書くときも小さく書くときも変わらないはずだが、身体座標系で記憶しているなら字のサイズが変わると関節の動かし方が(非線形に)変化するので、学習が無効になるだろう」という第3の仮説が生まれる。これに基づき「新しい文字を3cmで100回書かせて学習させたあと、1cmと10cmで書かせる。3cmで書いたときの文字を拡大して1cmと10cmの文字との誤差が一定値以下なら文字は外部座標系で学習されたのだろう。そうでなければ身体座標系で学習されたのだろう」という実験が立てられる。この研究例は自分の卒論をベースにいま適当に考えたので警察のツッコミは不要である。

上記実験例では「文字の書き方は脳内でどのように記憶されているのか」という問いが「異なるサイズで書かれた文字の形の差」という数値に収斂した。このように大きな仮説はどのようなもので、それを知るためにどのような実験が考案され、結果のグラフのどこを見ればいいのかということをよく考えながら聞いていないと研究の話にはすぐついていけなくなる。話についていけなくなると退屈で辛いので頑張ってついていこうと試みるが、簡単ではない。

人間を対象に研究をする場合「脳に電極刺して測ってみましょう」というわけにはいかない。人間に何かしらの課題をやってもらって、そのパフォーマンスを測定する。課題とパフォーマンスの関係から、その間にある人間というブラックボックスの性質を少しずつ推理していくのが心理学である。あくまで推理にすぎないので仮説を「検証」するという言葉は使わないのが通例となっている。ある現象が観測されたからといって、その原因が実験者の推測のとおりとは限らないからだ。

まあサルやネコには刺すんですけどね、電極。僕はやったことないけど。